昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 東京・戸倉監督も復帰
今回は『1967年8月21日増大号』。定価は70円。
「テツの野郎、うちのピッチャーをわやにしてしまいやがる。今度テツに会ったらただじゃおかないぜ」
阪神・藤本定義監督が怒りの表情で語る(正しい関西弁かどうかは不明)。
テツとは、巨人の
川上哲治監督だった。
怒りの理由は、第3戦の後、中1日で公式戦が再開するにもかかわらず、オールスターで全セ監督の川上が、大阪球場での第3戦で
村山実、バッキーを登板させ、
江夏豊には3連投。対して巨人の投手陣を温存させたことに対してだ。
わざわざ記者たちに「これはぜひ書いてくれ」と注文までし、川上への文句を言いまくった。
独走の巨人と3位阪神の差はすでに10ゲームとなっていた。戦前の巨人で監督をしていた藤本にとって、川上はかつての教え子。もちろん、今では立場は違うが、のち藤本は「阪神の選手にあった巨人へのコンプレックスをなくすため、あえてテツと呼び捨てにした」と話していた。
それが62、64年のリーグ優勝につながったことも確かだ。
このときも8月1日(甲子園)からの対巨人3連戦に向けの先制“口撃”であり、元気のなかった阪神の選手への喝でもあった。
ただ、川上もすでに百戦錬磨の指揮官だ。1日の試合前、いきなり阪神ベンチに来て、
「オールスターではお宅のピッチャーにお世話になりました。どうも」
と藤本に無表情のまま言ってペコリ。まさか、そう来るのは思わなかったのか、藤本は「いやあ」と答えるのがやっと。
内心、「そっけないな。もっと盛り上げようぜ、テツ」だったのかしれない。
その1日の試合、阪神先発は村山。右腕の血行障害で医師からは1試合で60球から70球と言われていた男だが、気迫の投球で見事完封だ。
試合後、「今の気持ちは」と聞かれ、
「とにかく疲れてくたくたで、ものをいう元気もないです」
と答えた。
横手からのフォークを投げる際、右腕の血管がつまったような感覚になってしびれが出るらしいが、気にせず多投した。
「しびれるといって投げなかったら、感覚を忘れ、右腕が治ったときにも投げられないかもしれない。だから悪いなりに工夫して投げたんです」
野球の鬼だ。
6月19日からオーナー命令で休養していた東京・
戸倉勝城が8月1日の復帰戦で白星。
永田雅一オーナーは、そのままクビにするつもりだったはずだが、「とりあえずオールスターまで」と言われ、代理監督を引き受けた
濃人渉が「責任は果たした」と辞任を申し出てきて、戸倉を復帰させるしかなかったようだ。
就任後、オールスターまで12勝7敗と好調だったが、濃人は「キャンプでも自分の構想でやったわけではないし、あくまでも急場しのぎ。長くやるものではない」といつも言っていた。
周囲は「大した補強もしないのに、成績が落ちると永田オーナーはすぐ監督の首を切る。濃人は自分の野球人生に傷をつけたくなかったのでは」とウワサした。
では、また月曜日に。
<次回に続く>
写真=BBM