1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 当初はユーティリティー
背番号0で
広島の
長嶋清幸が一時代を築いたことは触れた。ただ、背番号0から想起される選手の筆頭が長嶋ということには異論のある向きも少なくないかもしれない。現在では背番号0といえば、長嶋のような勝負強きクラッチヒッターではなく、攻守走に堅実さを誇る職人肌というイメージ。そんな印象を築いた背番号0といえば、1989年に背番号0を着けた巨人の川相昌弘だろう。
長嶋が誕生させ、普及させた背番号0を発展させていった存在であることには間違いないが、この男の凄味は背番号にとどまらない。2006年に引退するまで積み重ねた通算533犠打はエディー・コリンズ(アスレチックスほか)をしのいで、世界の頂点に君臨する。そんな“世界の犠打王”を育んだのが、80年代だった。当時を知るファンなら、背番号0よりも、守備固めや代走で勝ちゲームの終盤に登場する背番号60の印象も強いかもしれない。
岡山南高では投手で、2年の夏と3年のセンバツでは甲子園のマウンドも踏んだが、
「ドラフトの前、スカウトの伊藤菊雄さん、山下哲治さんが自宅に来られて、野手で指名しようと思っている、と伝えられました」
ドラフト4位で指名されて83年に巨人へ入団。すぐに内野手へ転向した。
「チームに合流した時点では頭の中に将来のイメージが少しずつ、できてきていて、目標にしたのが
土井正三さん、右左の違いはありますが、
篠塚和典(利夫)さんのような内野手の先輩方。守れて、打っても上位の二、三番を打つタイプの選手でした」
ただ、なかなか打てるようにはならなかった。1年目は二軍で猛練習。
王貞治監督が就任した2年目の84年には一軍デビューも、
「力不足で打てないからレギュラーになれないと考えていました。体重も60キロ台と軽かったので、ウエートを取り入れて70キロ台にしてみたり、多少のパワーアップを図ったりはしましたけど、バッティングが急に良くなるわけでもない。そんなモヤモヤした中で、当時を過ごしていました」
犠打と同様に、名遊撃手としても球史に名を残すが、遊撃の座が
河埜和正の失速から固定されない状態が続いたことは
岡崎郁を紹介した際にも触れた。にもかかわらず、当時は遊撃だけでなく、二塁や三塁、5年目の87年からは外野にも回るなど、今でいうユーティリティー的な存在だった。
「気持ちの中でバッティングは捨てました」
藤田元司監督が就任した89年。背番号0の1年目でもあるが、それ以上の転機が、
「アメリカのパームスプリングスでキャンプが行われたんですが、
近藤昭仁ヘッドコーチが、ピッチャーを中心に守り勝つ野球を目指す、とチームの方針を打ち出しました。これは自分にもチャンスがあるんじゃないか、と。当時は(遊撃の)3番手。その位置から抜け出すために何をすべきかを考えたときに、打たなきゃ使ってもらえない、ではなく、何かに徹すること、を考え始めました。目を向けたのが守りと、バントを軸としたチーム打撃。その分野で一番になろうと心に決めて、気持ちの中ではバッティングは捨てました」
迎えた89年シーズン。やはり三塁や二塁に回ったこともあったが、遊撃を中心に98試合に出場。規定打席には届いていないが、初のゴールデン・グラブに輝いた。犠打も前年の6から初の2ケタ32へと急増。翌90年には58犠打で当時のシーズン記録を更新し、以降7度のリーグ最多をマークしている。95年もリーグ最多の47犠打で、その成功率は100パーセント。犠打を警戒されている中では驚異的な数字で、まさに神業だ。
80年代は「モヤモヤした」時代だったと表現するが、そんな日々にあって、ある日の印象は今でも鮮明だ。それは奇しくも34年前の今日、6月13日の出来事だった。
「1つ目のバントは、3年目の85年、(6月13日の)
ヤクルト戦(福井)で
阿井英二郎から決めました。この1本が世界記録につながっていくとは、当時は思いもしませんでした」
写真=BBM