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プロ野球1980年代の名選手

中嶋聡 鉄人捕手の勇者での若手時代/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

弱冠19歳にして開幕一軍


阪急・中嶋聡


 2019年、二軍監督として22年ぶりに古巣オリックス復帰を果たした中嶋聡。22年というと、ずいぶん長い時間のように思えるし、実際に長い時間なのだが、この男の現役生活は、その22年を大きく上回る29年だ。これは工藤公康(西武ほか)、山本昌(山本昌広。中日)らと並ぶプロ野球記録でもある。

 日本ハムのユニフォームを着て、後進を育てながらマスクをかぶっていたのも、つい昨日のことのようだが、プロ入りは1987年。そのとき、まだオリックスという球団も、ブルーウェーブというニックネームも存在しない。もちろん、バファローズといえばオリックスではなく近鉄のことであり、60年代から80年代にかけて黄金時代を築いた阪急ブレーブスが山田久志福本豊といった黄金時代の主役を擁して、まだまだ健在だった時代だ。

 今から振り返れば、2年後には阪急はオリックスとなるのだが、その87年には、阪急がオリックスとなることも、オリックスがブルーウェーブ時代を経てバファローズになることも、誰もが夢にも思わなかっただろう。これは遠い昔のことのようでもあり、80年代からの古いファンであれば、それこそ、つい昨日のことのように思い出されるかもしれない。時の長さに対する感覚は人それぞれだが、この捕手が26年もプレーを続けた鉄人であり、80年代の終盤は、この鉄人捕手の若手時代だったことだけは確かだ。

 秋田の鷹巣農林高からドラフト3位で阪急に指名されて入団。当時の阪急で司令塔を担っていたのは、最後のVイヤーとなった84年にプロ2年目にして22本塁打を放って新人王に輝き、その後はクローザーのアニマルとの“珍プレー”でも話題になった藤田浩雅だった。鉄人捕手の1年目は、新人王捕手の5年目。高卒ルーキーにとって、まだまだ藤田の壁は厚く、1年目は2試合の出場に終わる。それでも、消化試合ではあったが、10月18日の南海戦(西宮)では、プロ初出場にして先発マスクをかぶるなど、貴重な実戦を経験した。

 そして、すぐにチャンスは回ってくる。この87年シーズン限りでアニマルが退団。だからというわけではないだろうが、翌88年には藤田が不振に陥り、弱冠19歳にして開幕一軍をつかむ。開幕第3戦となった4月10日の近鉄戦(西宮)では早くも先発マスク。序盤は藤田に押されて第2捕手に甘んじたが、まずは強肩でアピールして、徐々に信頼を得ていく。夏場からは藤田との併用となり、8月末には藤田を控えに追いやった。

 阪急の投手陣は、山沖之彦星野伸之ら若手も成長していたが、エースの山田や78年に完全試合を達成した今井雄太郎らベテランも健在、95年にバッテリーを組んでノーヒットノーランに導く佐藤義則は、まだ中堅といったところ。球史に残る先輩投手陣から実戦で多くのものを学んでいく。だが、この88年は阪急ラストイヤー。プロ2年目の19歳は、早くも運命に翻弄されることになる。

オリックスへ希望をつなぐ阪急ラストアーチ


 88年10月23日のロッテ戦ダブルヘッダー第2試合(西宮)が阪急ラストゲーム。これは同じ秋田県の出身でもある山田の引退試合でもあった。この試合で山田とバッテリーを組んで、4回表に先制を許すも、その裏には山越吉洋2点適時打に続くダメ押しの3ラン。山田の完投勝利を決定づけた本塁打は、阪急のラストアーチでもあった。

 オリックス元年の89年は不動の正捕手に。規定打席には届かなかったが、121試合に出場してゴールデン・グラブに選ばれている。95年からのリーグ連覇にも司令塔として貢献。97年オフにはFAでメジャーに挑戦するも、エンゼルスからマイナー契約を提示されて断念する一幕もあった。

 98年に移籍した西武では“松坂大輔の“専属捕手”として存在感を発揮し、03年の1年だけ在籍した横浜では故障に泣いたが、日本ハムが北海道へ移転した04年に移籍して、06年には守備率1.000の安定感を誇る“抑え捕手”として44年ぶりの日本一を支えている。

写真=BBM
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