昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 なぜ正面から来なかった、とスペンサー
今回は『1967年9月18日号』。定価は60円。
ロバート・ホワイティングの名著『菊とバット』は1970年代後半のものだが、この号には『スパイクとバット』という記事があった(目次はこの順で、実際は、逆の『バットとスパイク』)。
8月27日、南海─阪急戦(大阪)の話だ。8回のレフト前ヒットで、二走の阪急・
スペンサーが三塁コーチスボックスにいた
西本幸雄監督の制止も聞かず、本塁へ。
だが、レフトの好返球で南海の捕手・
野村克也にミットにボールが収まったとき、足の遅いスペンサーは、まだホームの2メートル手前。
野村は余裕でタッチに行ったが、ここでスペンサーがスライディングしながら右足を大きく上げ、野村のミットめがけて蹴り。この年、スペンサーのこの殺人スライディングで、近鉄・
小玉明利兼任監督、東京・
山崎裕之らを負傷欠場に追い込んでいた。
野村はかろうじて蹴りをかわすが、スペンサーに右ふとももを蹴られた形となってタッチできず、判定はセーフ。野村は、立ち上がったスペンサーに何やら言いながら肩のあたりを突き、それにスペンサーが怒りの表情を浮かべた瞬間だった。
スペンサーの背中に
杉山光平、
森下整鎮と南海の2人のコーチがほぼ同時にタックル。倒れ込んだスペンサーを南海ナイン、コーチが袋たたきにした。
テレビ中継もあった中での衆人環視の集団暴行だ。
驚くべきことに、この時点では杉山コーチの退場だけだったらしいが、次の回、スペンサーが一塁守備に就こうとした場面で、当てる気はなかったようだが、森下コーチがボールを投げつけ(森下は戒告処分)、これを見ていた阪急・
青田昇コーチが無言のまま南海ベンチに向かい、それを西本監督が止める一幕もあった。
野村は「あいつのプレーは意識して選手を傷つけようとしている。完全な暴力行為だ」と試合後も興奮冷めやらず。
スペンサーは「同じアウトになるにしても最後まで抵抗するのがプロ選手の務めではないか。俺はそれを忠実に実行しているだけだ」。
さらに後ろからとびかかってきた2人に対し、
「なぜ後ろからかかってくるのだ。西部劇でも後ろからピストルを打つ奴は、男の風上にもおけぬ卑怯者なのだ。なぜ堂々と正面からこない」
とこちらも怒り心頭だった。
近鉄の三軍は8月26日に二次テストの写真ルポがあった。昼間は実技、夜は筆記で、そのあとはみんなで寮に泊まった。
球団は正式採用の場合、球団職員として採用予定という。なおアマチュア規定に配慮し、すべて名前はA君、K君とあったが、写真では顔はかくしてしていない。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM