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プロ野球1980年代の名選手

阿波野秀幸&西崎幸広【後編】 リードした阿波野を追いかけた西崎/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

「ジュニア・オールスターが力になった」



 ドラフト1位で1987年に日本ハムへ入団した右腕の西崎幸広と、同じくドラフト1位で近鉄へ入団した左腕の阿波野秀幸。ともに新人王を争い、ストレートへのこだわりと甘いマスクを兼ね備える“トレンディー・エース”だったが、それぞれのチーム事情もあって、常にリードしていたのは阿波野だった。

 開幕から1完封を含む3連続完投勝利で4月の月間MVP。5月には3連敗と足踏みしたものの、一方の西崎は、まだ先発ローテーションにさえ定着できずにいた。阿波野は6月17日の阪急戦(西宮)から3試合連続完投勝利と復調。前半戦を終えた時点で阿波野が9勝、西崎が4勝と、新人王レースは阿波野が独走するかのようにも見えた。だが、西崎も7月2日の南海戦(後楽園)から2試合連続完投勝利。巻き返しが始まっていた。

「ジュニア・オールスターでの最優秀投手賞が、後半戦への力になった」(西崎)

 と、8月2日の西武戦(札幌円山)でのプロ初完封を皮切りに、破竹の10連勝。一方の阿波野は後半戦に入ると4連敗など失速した。それでも9月16日の阪急戦(西宮)から2完封を含む5連続完投勝利と、ふたたび復調する。最終的には阿波野が最下位の近鉄でリーグ最多の249イニング2/3を投げて32試合で22完投3完封、15勝12敗、リーグ最多の201奪三振にリーグ4位の防御率2.88。西崎は3位の日本ハムで221イニング1/3を投げて30試合で16完投4完封、15勝7敗、176奪三振にリーグ5位の防御率2.89。ほぼ互角といえる結果となる。そして、新人王レースは阿波野に軍配が上がったが、西崎にも「新人王と同等の活躍をした」とパ・リーグ会長特別賞が贈られた。

 翌88年は西崎がリーグ最多の21完投、15勝でキャリア唯一の最多勝。一方の阿波野は14勝でタイトルを逃しただけでなく、あと一歩で優勝を逃す悔しさを味わう。舞台は川崎球場、ロッテとの最終戦ダブルヘッダー“10.19”だ。

 17日の阪急戦(西宮)で128球の2失点完投も、打線の援護に恵まれず敗戦投手となった阿波野が、第1試合、1点リードの9回裏無死一塁からマウンドへ。引き分けでも優勝が消える場面で、二塁打と死球で二死満塁のピンチを迎えるも、森田芳彦を空振り三振に斬って取ってガッツポーズ。第2試合も1点リードの8回裏から登板したが、すでに体力は残っていなかった。サインに首を振って投じたウイニングショットのスクリューを高沢秀昭に左翼席へ運ばれ、同点にされてしまう。俊足の高沢への四球を警戒してのものだったが、そのまま延長10回、時間切れ引き分け。80年代に限らず、球史に輝く名勝負が終わった。

「“10.19”があったからこそ」


 迎えた89年、阿波野は悔しさを胸に投げ続けた。自己最多の19勝を挙げて、同じく自己最多16勝の西崎を上回って最多勝に輝く。183奪三振もリーグトップだ。マジック1で迎えた10月14日のダイエー戦(藤井寺)では7回表の途中から登板。1点を失うも、9回表、最後の打者には全球ストレートで三振を奪って胴上げ投手に。

「“10.19”があったからこそ、この日を迎えられたんです」

 と言って、涙を流した。

 だが、翌90年にボークのルール適用が厳格化されると、一塁への牽制をボークに取られ、投球リズムを崩してしまう。西崎は91年まで5年連続2ケタ勝利、95年には西武を相手にノーヒットノーランを演じるなど、好調を維持した。

 阿波野は巨人を経て、近鉄の投手コーチとして指導を受けた権藤博監督が就任したばかりの横浜へ移籍して、セットアッパーとして優勝、日本一に貢献。奇しくもドラフトで指名された近鉄、巨人、横浜(当時は大洋)すべてで日本シリーズを経験することに。西武へ移籍した西崎は99年にクローザーを務めて20セーブをマークしている。阿波野は2000年オフに現役引退。西崎が引退したのは、その翌01年のオフだった。

写真=BBM
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