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平成助っ人賛歌

80年代では異例の西武黄金時代“育てる助っ人”バークレオとは?/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

バブリーな日本球界へ


アメリカでは実績がなく、一発逆転を狙って来日したバークレオ


 あのころ、「53億円で落札」がニュースになった。

 1987年(昭和62年)3月30日、安田火災海上がロンドンでのオークションでゴッホの名画「ひまわり」を53億円で落札した(当時の為替換算)。4月末の日本の外貨準備高は696億2000万ドルで世界一に。アサヒビールの「スーパードライ」は春の発売以来830億円もの売上げを記録。バブル景気真っ只中、ニッポンは完全にお祭り騒ぎで浮かれていた。

 プロ野球は社会を映す鏡だ。当然その好景気は球界にも波及する。87年オフ、ロッテはメジャー通算2008安打、首位打者4回の実績を持つ37歳のビル・マドロックを年俸1億3650万円で獲得。ヤクルトはメジャー通算237本塁打で37歳のダグ・デシンセイを年俸1億9000万円で連れて来た(ちなみに日本人選手最高年俸は中日落合博満の1億3000万円)。いわば当時のベテラン大リーガーにとって、好景気の日本はキャリアの最後に一稼ぎするには絶好の舞台だったわけだ。

 87年6月25日、そんなバブリーなNPBに、ひとりのハングリーな若者がやってくる。195センチの長身に金髪の甘いマスク。まだ24歳、年俸わずか700万円、メジャー経験なし。タイラー・リー・バンバークレオである(登録名はバークレオ)。若き四番バッター・清原和博や“大リーグに最も近い男”秋山幸二を擁す、西武ライオンズが郭泰源、ブコビッチに次ぐ第三の外国人として目をつけた無名の選手。

 マイナー・リーグのチームを転々とする野球人生を送っていた男は、プロ5年目の86年に1Aのパームスプリングスで打率.268、22本塁打、108打点を記録。荒削りながらその長打力とリーグ最多の勝利打点19の勝負強さが、偶然にもカリフォルニア・リーグのサンノゼ・ビーズに秋山や大久保博元ら若手選手を野球留学させていた西武の関係者の目にとまる。1試合平均観客数670人のマイナー・リーグでプレーするバークレオは、翌87年春にようやくエンゼルス傘下の2Aミッドランドに昇格も、野球人生の一発逆転を狙って日本行きを決断する。当時の西武には球界屈指のスカウト網と巨人をも上回る豊富な資金力があった。

 負けん気の強い堤義明オーナーは、同時期にヤクルトで大フィーバーを巻き起こしていた年俸3億円の現役バリバリ大リーガーのボブ・ホーナーを意識して、「大金選手を連れてくる時代は終わり。安くて若い外国人をたくさん呼んで、その中から育てる時代だ。バークレオはその第1弾です」と発言。いわば、今より登録枠が少なく外国人選手には即戦力が求められた当時では異例の“育てる助っ人選手”としての獲得。まさに黄金時代へ突入しようとしていた戦力充実期のチームだからこそ実現できた年俸700万円助っ人の獲得である。

来日2年目に打棒爆発


家族で異国での生活に溶け込もうと努力し、日本での成功を夢見た


 背番号29の1年目はイースタン・リーグでじっくり日本野球を叩き込まれ、打率.279、6本塁打、20打点と平凡な成績。34試合で36三振と変化球攻めにも苦しんだ。しかも当時の西武二軍はデーブ大久保、イースタンで4割近い打率を残した左のスラッガー安部理、打率.368、6本塁打でイースタン首位打者にも輝いた白幡隆宗と他球団なら一軍レギュラーが獲れるであろう球界最強のメンツがそろっていた。ちなみに彼らは皆、サンノゼへの野球留学組だ。今ほどファームの試合数が多くなく育成選手制度もなかった時代、最強西武のベースのひとつがアメリカで作られたというのは興味深い。

 二軍生活が続いたバークレオだったが、アメリカ時代は愛妻・クリス夫人がベビーシッターに出かけ、バークレオもオフにはペンキ塗りのアルバイトで生計を立てた苦労人。オレはなんとしてもニッポンで成功してみせる。育てる助っ人はその期待通りハングリーに日本野球に食らいつく。チャンスが来たのはブコビッチが退団した来日2年目の88年シーズンだ。オープン戦は打率.213も4月9日の南海との開幕戦(西武球場)には「七番・DH」でスタメンに抜擢。一軍初打席では9球粘った末に三振も、翌10日には来日初アーチとなる満塁ホームランを叩き込む。

 当初は左腕投手相手には先発を外れることも多かったが、着実に結果を残し、5月には五番定着。5月12日現在、58打数26安打で打率.448、ホームランは秋山に次ぐ6本。「とにかく真剣に取り組む姿勢がいいんだよ。こっちのいうことに耳を貸すからね。打撃フォームを矯正するときも素直に受け入れたね」なんて鈴木葉留彦打撃コーチは褒め、広野功打撃コーチも「もし、タイラーがメジャーを経てきた選手だったら、プライドを捨てきれず、もがきにもがいていただろうね。いまごろは」とその素直な姿勢を称賛する。

『週刊ベースボール』1988年6月13日号では「外国人選手は日本で育てる時代の到来か……バークレオに見る舶来砲戦力化成功例」という特集が組まれている。「西武の留学システムの副産物」「札束攻勢での獲得に一石を投ずる」球界の革命を絶賛。インタビューを申し込むも、「もう少し見合わせてもらえないですか。まだ、そこまでの選手じゃないんですよ。周囲に慣れ、すべてが軌道に乗ったときに応じさせますから」と球団側から断られたという(だから当時のバークレオのロングインタビューはほとんど存在しない)。

 とにかく、みんなで育てるという意識が垣間見えるバークレオの扱い。アメリカ人助っ人では珍しく都内在住ではなく、所沢市内のマンションでクリス夫人と愛娘の3人暮らし。地下鉄もひとりで乗り、カタカナの読み書きを覚え、買い物や食事も通訳なしの生活。そんな真面目なスラッガーは、88年に打率.268、38本塁打、90打点、OPS1.024の好成績を残し、4本の満塁弾に秋山との14回のアベックアーチはパ・リーグのタイ記録だった。秋山、清原との“AKB砲”はパ・リーグ初の同チーム3人がシーズン30本塁打以上の快挙達成。西武も当然のように日本シリーズ3連覇を成し遂げ、森祇晶監督も「高望みはしていなかったんだが、バークがいなかったら優勝もなかった」と感謝を口にした。

広島で開幕スタメンを勝ち取るも……


90年限りで西武を退団し、91年は広島に在籍した


 平成に突入した翌89年序盤には執拗な変化球攻めにも苦しみ、わずか6本塁打に終わり、緊急獲得したオレステス・デストラーデの驚異的な活躍により再び第三の外国人の立場へと逆戻り。だが、その潜在能力は高く評価され、91年には広島へ金銭トレード移籍。小早川毅彦とポジションを争い、開幕戦で「五番・一塁」を勝ち取るも故障にも泣かされ、まだ20代の後半の若さにもかかわらず、わずか1年で退団した。

 今思えば、当時の制度では早すぎた“育てる助っ人”だった。もし、現在のような3人の野手が同時にプレーできる外国人枠(一軍4人まで)ならば、もっとじっくりと起用され、日本球界で長く活躍できた選手だろう。実際、90年夏には郭の右ヒジ痛により出場機会を得ると、一時期「三番・バークレオ、四番・清原、五番・デストラーデ、六番・秋山」の超重量級打線の一角を担い9本塁打をかっ飛ばす。この年はイースタン本塁打王を獲得。広島移籍後の91年秋のファーム日本選手権でも巨人相手に一発を放つなど、真面目なバークレオはたとえ二軍であろうが、最後の最後まで全力を尽くすプレースタイルを崩すことはなかった。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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