昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 ウグイス嬢の失敗話
今回は『1967年9月25日号』。定価は特別定価で70円。
もはや優勝の行方はセが巨人、パは阪急で決定的とあって、早くもストーブリーグネタが誌面をにぎわしていた。
監督交代が濃厚なのは、大洋の
三原脩監督、東映の
水原茂監督、
広島の
長谷川良平監督と言われる(すでに交代は東京)。
水原監督は名古屋の財界人が動き、
中日監督就任がウワサされていたが、ところてん式にさまざまな監督人事が予想される。
大きく揺れていたのが広島だ。
最下位で選手の信頼も失っていた長谷川監督の退陣は決定的で、後任については選手からは、
根本陸夫コーチを推しているが、本人にやる気なく、
上田利治コーチはやる気満々ながら選手の人望がいまいちらしい。
実は、広島には球界から撤退のウワサがあった。松田恒次オーナーの健康がすぐれず、球団の筆頭株主の東洋工業の経営は、息子の耕平常務に任せっきりとなっていた。
親会社なき市民球団としてスタートしたカープだが、市民球場の観客動員も落ち気味で、東洋工業以外の広島財界十社も支援する力はない。東洋工業が手を引くようなら、もはや球団存続は無理であろう、というウワサも流れている。
すべては松田オーナー次第と言われていた。
「声はすれども姿は見えずウグイス嬢」という記事があった。
球場の女性アナウンサーの草分けは、巨人・
宮田征典が「8時半の男」と命名されるきっかけをつくった巨人の務台鶴さんだ。
1リーグ時代も1947年からこの仕事を「義兄の勧めで始めた」という。当初は日本職業野球連盟、そこからセ・リーグ所属となり、53年から巨人所属となった。
51年、初めてのナイターの試合もアナウンスをしていた。
「当時電力事情があまりよくなかったでしょう。それでプレーボールとともに照明塔が消えて真っ暗闇。とっさに“懐中のものにご注意ください”と言ったら、お客さんから笑い声があがった」
時代を感じる逸話だ。
この年、8月19日からセ・リーグは本拠地チームの選手を一人ずつ紹介するようになったが、これは務台さんのアイデアらしい。
「イースタンではすでにやっていたんで、連盟の方に採用してみたらと言ったんです。わたしの主張が取り入れられてうれしいです」
広島カープの川原多恵子さんの失敗談もあった。
「カープと国鉄(サンケイ)の試合でした。試合前のオーダー発表のときに国鉄ホエールズと言ったんです。そうしたらコーチの飯田(徳治)さんが怒鳴り込んできた。あんな恥ずかしいことはありませんでした」
今回は週刊ベースボール通算500号とあって、特別記事も多かった。この連載は、その歴史を1冊ずつ追うものだが、まだ、500回ではない。時々、増刊号が入っていたので、マイナス10回くらいか。
では、また月曜に。
<次回に続く>
写真=BBM