1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 89年に颯爽と登場したドライチ右腕
ドラフト1位で入団したからといって、活躍できるとは限らないのがプロ野球。注目されるだけ注目されて、その重圧に押しつぶされてしまう選手や、プロ入り前に全盛期を終えてしまったかのように、アマチュア時代の精彩を一気に失う選手など、花を咲かせることができなかったケースは少なくない。
この点、1980年代の西武は、
秋山幸二や
伊東勤らのケースのような“寝技”もさることながら、ドラフトでの新戦力の獲得に関しても、その手腕は群を抜いていたといえる。一過性の強さに終わらずに黄金期を築いた秘訣は無数にありそうだが、このあたりもまた、その強さの秘訣だったのだろう。
80年代の最後、89年に入団した“ドライチ”が渡辺智男だった。ちなみに、パ・リーグの新人王に輝いたのは
オリックスのドラフト1位でもある
酒井勉だったが、“同期”のドラフト1位は豪華な顔ぶれで、特にセ・リーグは
ヤクルトが
川崎憲次郎、大洋が
谷繁元信、
広島が
野村謙二郎、
中日は
今中慎二の獲得に成功し、いずれも来る90年代の優勝に貢献する中心選手に成長している。ただ、このときの西武は“密約説”がささやかれるなど、ドラフトを騒然とさせた。プロ拒否宣言をした右腕を強行指名したからだ。だが、そんな宣言をしたのは故障があったため。ソウル五輪を控えた世界選手権でスライダーを多投して右ヒジを痛めていたのだ。
ヒジ痛との付き合いは中学のときからで、一度は野球を断念したこともある。さらに、伊野商高では腰を痛めた。
「実家がイチゴなんかを作っているんですが、座ってする仕事だから、(腰を痛めていたことで)親の手伝いもできなかったですよ」
と笑って振り返る。それでも、3年でエースとして85年のセンバツに出場して、のちにチームメートとなる
清原和博を抑え込む。
「1回は勝って帰ろう、って感じでしたから、1回戦は緊張しましたけど、清原とやった準決勝では、負けても胸を張って高知に帰れるな、ってなもんでした」
このときのことを、のちに清原は「どんどんスピードが上がっていく。上には上がいると、あのとき初めて思った。力で抑え込まれたのは、最初で最後かもしれない」と振り返っている。清原との4打席は1四球、3三振。PL学園高を下すと、決勝でも帝京高を破って優勝投手に。社会人のNTT四国でも3年連続で都市対抗に出場している。そして、西武への入団を前に右ヒジを手術。一軍に合流したのは5月下旬、黄金時代の西武がBクラスをウロウロする苦しい時期に、黒星が先行したが、夏場からは真価を発揮していく。
「息が長い投手になりたいです」
いくつも体に爆弾を抱えていたが、快速球と強心臓は群を抜いていた。体をひねって力をため、それを一気に解放。しなやかにヒジを使って150キロを超える快速球を投げ込んだ。鋭い高速スライダーや、緩急をつける大きなカーブでも打者を惑わせて、8月から2度の4連勝で最終的には2ケタ10勝。翌90年には自己最多の13勝、続く91年には防御率2.35で最優秀防御率に輝いている。
スピードガン以上の威力がある快速球から“
江川卓(巨人)2世”とも言われたが、これは下位打線への“手抜き”も似ていたため。
森祇晶監督からは「お前のピッチングは遊びが多過ぎる」と怒られたこともあったが、
「全球を全力で投げたら体が持ちません」
体に爆弾を抱えている以上、常に全力投球というわけにはいかなかった。
「
ロッテの村田(兆治)さんのように、息が長くて、最後までストレートで勝負できる投手になりたいです」
と、プロ1年目の89年には語っていたが、この夢は叶わなかった。初タイトルの翌92年にヒジの爆弾が炸裂。94年に秋山らとダイエーへ移籍してサイドスローに挑戦するなど試行錯誤したが、輝きは取り戻せず。98年に金銭トレードで西武へ復帰も、一軍登板のないまま、オフに現役を引退した。
写真=BBM