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プロ野球1980年代の名選手

北別府学【後編】 “精密機械”と評された制球力の秘密とは?/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

8割で投げて抑える方法



“精密機械”と評された抜群の制球力を誇った広島の北別府学だったが、若手時代は勢いのピッチング。モデルチェンジは80年代の中盤、30歳の前後だったという。

「変えなきゃと思ったわけじゃなく、エースとして結果を求められる中で、どうしたらいいかと、いつも考えていました。じわりじわりと、そうなっていったんでしょうね。年齢とともに、だんだんスピードがなくなってきて、コントロール重視のピッチングに変えていかないと長く投げられんな、と思ってからです。極端にいえば省エネですね。8割で投げて抑えられる方法を考えました」

 大きく振りかぶることはなくなり、ほとんどがセットポジションからの投球になった。

「30歳を過ぎてからは、若いときと下半身の強さも違うし、振りかぶると微妙にグラグラすることがあるんですよ。グラつくとタイミングもズレちゃうんで」

 右打者の内角を狙う場合は、セットポジションで爪先に体重をかけ、体の前面を意識して、肩からヒジを捕手のミットにぶつけるイメージ。逆に右打者の外角へは、かかとに体重を乗せて背中を意識、イスに座るように腰を真っすぐ落としたという。高低はリリースポイントで調整した。早く離すと高めへ、長く持つと低めへ。指先の感覚に頼らず、フォームすべてで制球した。打者との対戦は球審との対決と考え、

「自信を持って投げた球をアンパイアがボールと言ったら、2球でも3球でも同じ球を同じコースに投げました。無言の抗議です。心の中で『このヘタクソ審判!』とか思いながらね(笑)。私は2ボール1ストライクからでも平気でウエストできました。四球を出すんじゃないかと不安になったことはなかったですね」

 86年には18勝、防御率2.43で2度目の最多勝、初の最優秀防御率に輝いてリーグ優勝の立役者となり、初のMVP。

「オールスターまでに7勝しかできていない。気分転換で九州に帰ったんです。それが良かったみたいですね。後半は11勝(1敗)。打たれる気がしなかったですね。思ったとおりのところに球が行ったし、こうすればセカンドゴロでゲッツーとか、頭で描いたとおりの結果になった。ああいう年は初めてでしたね。胴上げの試合でも先発して、最後は津田(津田恒実)に渡した。あの試合は印象に残っています」

 エースである以上は任された試合は完投する、というのが持論だったが、

「前半、津田が踏ん張ってくれた。津田のおかげで優勝もできた。点差も開いていて津田を出す場面ではなかったですけど、大きくマウンドでジャンプして派手だったじゃないですか。僕だったら地味だったと思うんで(笑)」

 この86年には通常のスライダーに加え、日本シリーズで対戦した西武の東尾修を見たことでインスラを“習得”している。

「球種がひとつ増えた感じでしたね」

80年代“最強”のエース


 87年が10勝、翌88年は11勝。だが、89年は9勝に終わり、78年から11年も続いていた2ケタ勝利が途切れてしまう。

「監督が代わり、キャンプでランニング量が増えて、感覚が違ってきた。6月くらいまで勝てなくて、そうなると自然に下半身じゃなくて上体を使ってしまうんですね。そのせいで90年にヒジの故障。もがき苦しんだという感じです。これほど悩み苦しんだのは初めてでした」

 どういうわけか日本シリーズでは勝てず、通算5度の出場、11試合の登板で0勝5敗。この91年もシーズンでは11勝を挙げて復活も、西武との日本シリーズでは2敗に終わったが、

「これをきっかけに、もう一度ピッチングスタイルを思い出して、次の年に14勝を挙げて、通算200勝もできました」

 80年代で最強の投手は誰か。個人成績だけでなく、優勝への貢献度や存在感など、いくつもの指標があるだろう。ただ、投球回2020イニング2/3、137勝、無四球完投29は80年代のトップ。80年代で誰よりも投げ、誰よりも勝って、そして誰よりもコントロールがよかった投手は間違いなく、この男だ。

写真=BBM
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