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伊原春樹コラム

現役時代の石毛宏典に三塁コーチャーが指摘されたこととは?/伊原春樹コラム

 

月刊誌『ベースボールマガジン』で連載している伊原春樹氏の球界回顧録。6月号では石毛宏典に関してつづってもらった。

「声も出してくださいよ」


西武の優勝にも何度も貢献してくれた[左が石毛]


 ハチ(石毛)に対して一つだけ覚えているのは、ある試合でハチが一塁走者でいるときだった。私は三塁コーチャーズボックスに立っていたが、打者が左中間か右中間を抜く打球を放った。ハチは二塁を駆け、三塁へ。私は手をグルグル回していたが、ハチが三塁を回った瞬間、ゼスチャーでストップの指示を出した。しかし、ハチはそのまま本塁へ突入。ホームでアウトになってしまった。

 ベンチに戻って、ハチに「ストップをかけていたのに、なぜホームへ行ったんだ。指示を見ていなかっただろう」と指摘すると、ハチは「見ていませんでした」という。当時、私は選手に対して二塁から三塁に向かう際、まず三塁ベースの5メートルくらい手前で私の動きを見ろと言っていた。さらに、三塁ベースを通過した瞬間も私の動きを確認しろということを口を酸っぱくして教えていた。ハチは最終確認を怠ったのだ。

 今一度、それを徹底しようと思ったら「見ていませんでした」と言ったハチは続けて「しかしですね、伊原さん。声も出してくださいよ」と言葉を継いだ。確かに私はストップの際は動きだけで声を出すことはしていなかった。ハチが言うことも正しいと思った私は、「それは悪かった。ハチの指摘ももっともだ。これからストップのときは言葉にするよ」と言い、「特にハチのときは大きな声を出すからな」と続けると、ハチはニヤリと笑った。本当にハチとはバチバチやり合ったこともまったくないし、優等生だった印象しかない。

 ハチはもちろん、バッティングも勝負強かった。当初は一番を打つことも多かったが、どちらかというと一番タイプではない。しつこさに欠けていた面があったからだ。辻発彦が成長してきて、彼が一番を打つようになると六番に入ることが多くなった。それが90年からだ。前年途中にデストラーデが入団し、秋山幸二清原和博、デストラーデのクリーンアップトリオ“AKD砲”が完成。そのあとに率も残せ、一発もある石毛がいるから相手にとっては本当に嫌だったことだろう。

森監督の跡を継げば継げば歴史が変わった


 ハチは結局、1994年限りで西武を去った。森祗晶監督がチームを去り、後継者として監督就任を要請されたが、現役にこだわりがあったハチはそれを固辞。FA権を使って、ダイエーへ移籍してしまったのだ。私はこのときが西武の分岐点だったように思う。現役としてユニフォームを着続けたいという思いがあったから仕方のないことかもしれないが、このとき、ハチが西武監督となっていれば……。

 ハチは黄金時代のチームのしきたりを熟知している男だ。チーム内で髪型の乱れなどは絶対に許さなかっただろう。そのへんの規律が95年以降は緩んでいたように感じる。私が2002年に監督になり、引き締めたりしたが、やはり、ハチが森監督の跡を引き継いでいれば、西武黄金時代の伝統が今もしっかりと生きているチームになったのではないかと思う。

 ハチは96年限りで現役引退し、98年ダイエーの二軍監督になったが、1年限りで退くと、解説業を経て02年オリックス監督となった。しかし、当時のオリックスはチームが弱体化していた。同年から西武監督となった私は監督会議で顔を合わせた際、「大丈夫か?」と声をかけたが、ハチは「やるしかないです」と前を向いていたことが思い出される。

 だが、戦力不足はいかんともしがたいところだった。西武は90勝を挙げ優勝したが、オリックスは借金37の最下位に沈んだ。西武との対戦成績は西武の22勝6敗。翌年開幕から20試合を終えた時点で成績低迷を理由に解任されてしまった。

 翌年、私がオリックスの監督になった。同年、球界再編騒動が起こったこともあったが、やはり、なかなかチーム状態が上向かない。ハチが四苦八苦していたのを身をもって感じた次第だ。

写真=BBM
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