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プロ野球1980年代の名選手

和田豊 攻守に職人肌のプレーが光ったトラの背番号6/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

88年に56犠打でプロ野球記録を更新


阪神・和田豊


 とにかく阪神ひと筋。2015年オフに監督を退任してからも阪神を支え続ける和田豊のルーキーイヤーは、あの1985年だった。

 幼稚園に入る前から学校の先生になるのが夢だったという。小学校で剣道や水泳を始めたのも、教師になるための一環だった。日大4年の84年にロサンゼルス五輪の日本代表メンバーに選ばれるが、教員採用試験の日程と重なり、悩んだ末に少年時代からの夢を断念。それが、プロ野球選手への道を開くことになった。ロサンゼルス五輪では日本の金メダル獲得に貢献。秋のドラフト3位で阪神に指名されて、翌85年に入団した。

 その85年は阪神の歴史において、最高のシーズンといえるのかもしれない。リードオフマンの真弓明信に始まり、三番のバース、四番の掛布雅之、五番の岡田彰布が30本塁打を超える大爆発。勝負強い佐野仙好がクリーンアップに続くと、二番や七番として北村照文平田勝男といった職人肌が打線をつないだ。司令塔の木戸克彦も強打を秘め、174センチとプロ野球選手としては小柄なルーキーには、付け入るスキがなかった。

 阪神が21年ぶりのリーグ優勝を果たしたペナントレースでは遊撃、二塁の控えとして39試合に出場したものの、2リーグ制となって初の日本一を飾った西武との日本シリーズには出場できず。その引退までの17年間、阪神は優勝することができなかったため、結果的に選手として最初で最後となった日本シリーズで、日本一の舞台に立つことはできなかった。その後、90年代から2000年代の初頭にかけて、低迷を続ける暗黒時代の阪神を一貫して支え続けた姿を思うと、この85年の巡り合わせは、なんとも皮肉に思える。

 翌86年は8試合の出場にとどまったが、その翌87年には遊撃、三塁、二塁、そして外野と守備位置を転々としながら54試合に出場、プロ初本塁打も放っている。転機は88年。村山実監督の就任だった。88年はバースがシーズン途中に退団、掛布がオフに現役を引退するなど、阪神にとってもエポックといえるシーズン。3年前に“猛虎フィーバー”で沸かせたチームが、“ダメ虎”と揶揄されるようになったころだ。

 世代交代を考えた村山監督が大野久中野佐資と“若トラ少年隊”として売り出されると、シーズン途中にはバントの名手でもあった北村が西武へ移籍、その後釜として二番打者となり、平田から正遊撃手の座を奪ってレギュラーに定着した。すると、いきなりプロ野球記録を更新するシーズン56犠打。2年連続で最下位に沈んだ“ダメ虎”にあって、貴重な希望の光となった。

89年に二塁手としても結果を残して


 90年代は一番や三番という打順も多くなり、巧みな右打ちで安打を量産したが、

「打撃より守備で試合に出ていると思いたい」

 と語るほど、守備の人。派手さはないが、堅実なグラブさばきには当時から定評があった。

 92年から二塁手として3年連続でゴールデン・グラブに輝いているが、二塁へ回ったのが89年だった。遊撃手として頭角を現したのが八木裕。92年には“幻の本塁打”を放ち、90年代の後半からは“代打の神様”と崇められた強打者だ。

 そんな八木と二遊間を形成して、打順は変わらず二番打者として40犠打をマーク、2年連続リーグ最多犠打に。堅守と堅実な犠打。こうした職人肌のプレーこそ、最大の持ち味だった。90年からは遊撃に戻ったが、阪神がリーグ優勝を争ってファンを驚かせた(?)92年には新人王の久慈照嘉と鉄壁の二遊間を形成。その後は正二塁手として翌93年にはリーグ最多の161安打を放ち、その翌94年には自己最多の165安打で自己最高、リーグ4位の打率.318をマークしている。

 97年には開幕戦から24試合連続安打のプロ野球新記録。01年に引退してからもコーチ、監督としてタテジマのユニフォームを着続けた。現在は阪神のベースボールスクールで特別顧問を兼ねる。まだ日本一の夢はかなえていないが、少年時代の夢には少し近づいたのかもしれない。

写真=BBM
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