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プロ野球1980年代の名選手

駒田徳広 初打席から満塁弾の“満塁男”のドラマ/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

初の快挙で築かれたイメージ


巨人・駒田徳広


 満塁の場面に強く、“満塁男”と呼ばれる強打者がいる。ただ、“満塁男”を誰か1人だけ挙げるとしたら、この駒田徳広になるのではないか。現役20年で13発のグランドスラム、通算本塁打のうち15本に1本は満塁弾という“満塁本塁打率”もさることながら、プロ野球で初めて初打席から満塁弾を放ち、引退まで満塁の場面でインパクトを放ち続けた“満塁男”というのは唯一だろう。

 あまりにも鮮やかに幕が開けた“満塁男”のドラマには、序章がある。桜井商高では左腕エースで、1980年、3年春の県大会では決勝に進出。2回の二死満塁で打席が回ってくると、敬遠されて押し出しに。だが、5回には投手として満塁から押し出しを続け、ついに満塁弾を浴びる。さらには8回の無死満塁で迎えた打席で1点差に迫る満塁弾を放った。ただ、投手としては球こそ速かったが制球難。13四球で2ケタ得点を与える乱調で苦杯を喫した。秋のドラフトでは原辰徳に続く2位で指名されて巨人へ。だが、

「コントロールもないし、投手としては難しいかな、と。投手をやってダメなら1年後に野手という話もありましたが、その1年がムダになっても仕方がないから」

 と自己分析。すぐに志願して野手になった。

 2年間は二軍で過ごし、3年目の83年に開幕一軍の切符を手にすると、中畑清が試合前に骨折したことで一塁手として先発出場。

「打撃より守備が不安でしたね」

 と語るように余裕はあったが、初打席では、

「ストライクが来たら、打つ。それしか考えていなかった」

 1ボール2ストライクからバットを振り抜くと、打球の行方を見ることもなく全力疾走。前を走る淡口憲治からジェスチャーで制止されて、ようやく自らの快挙に気づいたという。

 初の快挙で築かれたイメージは、ある種のレッテルだったのかもしれない。その83年は最終的に86試合で12本塁打。“王貞治2世”と期待を受け、身長191センチの体躯とパワーに惚れ込んだ評論家やコーチが惜しみなく助言を送った。翌84年には代打満塁弾も放ったものの、多様な意見に混乱して失速していく。その翌85年には王と同じ“一本足打法”にも挑戦したが、断念。ただ、このときに学んだ体重移動は技術の向上を呼ぶ。

 翌86年には短いバットでコンパクトにスイングする自分の打撃に戻すと、じわじわと真価を発揮するようになる。続く87年には一塁と右翼、左翼を転々としながらも、初めて出場100試合を超えて王監督の初優勝に貢献。その長身からは想像しづらいが、ベース1周14秒と機敏で、一番打者としての出場も多かった。しだいに長打力も取り戻し、2度目の2ケタ15本塁打を放っている。

89年には日本一の立役者に


 通算10度のゴールデン・グラブに輝くなど、一塁手としてのグラブさばきも秀逸。初めて一塁の定位置で躍動した89年には満塁弾2発に2年連続で打率3割も超え、巨人が3連敗の後に4連勝した近鉄との日本シリーズでは12安打5打点、打率.522でMVPに輝き、日本一の立役者に。7試合すべてで安打を放ち、第7戦(藤井寺)では、3連敗の後に“舌禍事件”を起こした加藤哲郎から先制ソロを放ってチームを勢いづけた。

「バカヤロー!」

 と叫びながらダイヤモンドを一周したことで加藤への“怒りの一打”とも思われたが、

「3回やって3回も負けたんだから(巨人はロッテより弱い、と)言われても仕方ない」

 と思っていたという。

 その後は巨人での満塁弾はないが、横浜へFA移籍、さらに安打の量産に徹すると、最終的には通算2000安打にも到達する一方、“満塁男”ぶりも復活。通算満塁弾のうち8本は横浜へ移籍してからのものだ。

 横浜1年目から98年まで5年連続で全試合にも出場。その98年は白眉で、“マシンガン打線”の五番打者として、そして貴重な優勝経験者として打線の軸となり、38年ぶりのリーグ優勝、日本一に貢献している。

写真=BBM
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