週刊ベースボールONLINE

高校野球リポート

強豪復活へ本腰を入れる前OB会長。“オヤジ”の顔を持つ崇徳・應武篤良監督/令和元年の夏、初陣の新指揮官

 

現在、『夏 甲子園2019全国49地区総展望』が発売中だ。同誌の中で令和元年の夏、初陣を飾る指揮官を取り上げているが、週刊ベースボールONLINEでも公開しよう。

早大では斎藤佑樹を指導


今春からユニフォームをリニューアル。母校・早大に近い書体で、ストッキングには1976年センバツ優勝を示す1本のラインを入れ、誇りを持たせている


 オヤジの顔だった。春季中国大会ベンチ入りメンバー18人発表の日。広島県大会は登録20人だったため、2人を削らないといけない。練習後の背番号贈呈式。1番から名前を読み上げるたび、他の部員からは握手。惜しくも漏れた選手が涙する姿を前にした應武篤良監督も、目頭が熱くなった。5月12日で61歳。もともと涙腺は緩いほうだが、さらに涙もろくなった。

「私の後輩でもある部員たちは本当、かわいいですよ」

 崇徳高は春夏を通じて5回の甲子園出場も、春は1993年、夏は76年が最後。76年春のセンバツ優勝捕手・應武氏が母校監督に就任したのは昨年8月だ。

「戻る予定はなかった。早稲田での6年間で、野球に恩返ししようと、精も魂も尽き果てた」

 早大監督として12シーズンで6回の東京六大学リーグ制覇。斎藤佑樹(現日本ハム)が在籍した1年時の大学選手権と、4年時の明治神宮大会優勝へ導いた。斎藤が卒業する2010年秋に勇退。翌年から新日鐵住金での社業に専念。13年、周囲からの懇願で崇徳野球部のOB会長に就任する。副会長の山崎隆造氏(元広島)ともに現役支援のため、学校側とのパイプ役として動いた。議論を重ねるうち、監督就任の要請が入る。

「甲子園へ連れて行ってあげたいな、と。ただ、OB会長として『頑張れ!』だけでは無責任かなと感じたんです」

 決め手は、高校同期13人からのバックアップだった。

「もう1回、甲子園に行って、皆で校歌を歌おうぜ! と。サポートしてくれるというので、力を振り絞ろうと決意しました」

43年ぶりの夏へ照準


 昨年6月末に定年退職。7月に広島の関連会社へ転籍し、8月から母校の指導に当たる。月に1回、同級生を囲んでの激励会が力の源だ。広島市内の中心部にある学内のグラウンドはラグビー、サッカー、アメフト部と共用。野球部は内野スペースしかなく、打撃練習もネットへ向かって打つしかない。2週間に1度は入野グラウンド(東広島市)を使用するが、環境面のハンディは應武監督時代から変わらない。

 1年秋から一番・捕手の池上歩主将は「この条件で勝ってこそ、意味がある」と前向き。「名前を覚えるのが得意」(應武監督)と、練習中は積極的に声をかけ、コミュニケーションに努めた。部員も委縮することなく、まさに親子のような風通しの良さがある。就任早々の昨秋は県大会3位で、中国大会8強。今春も県大会3位で中国大会に駒を進め早速、成果を残している。

「私の中で『打ち勝つ野球』というのは、言ったことがない。ただし、守備練習に割く時間が短いので、打たないと勝てない。守備でリズムを作って、攻撃に転ずる」

 昨秋の中国大会準々決勝敗退後、号泣する選手を見た應武監督も、こみ上げるものがあった。「情が入ってしまう」。部員にも熱血漢の思いは伝わっており、池上主将は「監督を甲子園に連れていく。部員全員の思いです」と語った。43年ぶりの甲子園の決意を指揮官へ伝えると「いや、俺が連れていく。あまり選手に意識させたくない」と、オヤジの目は勝負師の視線に変わった。

 全体練習後、グラウンド奥でティー打撃を打つ選手に目を凝らしていた。中国大会のベンチ入りから外れた選手が必死にバットを振る姿に、またも61歳の感情は抑えられなくなった。

PROFILE
おうたけ・あつよし●1958年5月12日生まれ。広島県出身。崇徳高では3年春のセンバツで優勝し、同夏も甲子園出場。77年ドラフトで近鉄3位指名を拒否して早大へ進学し、2度のリーグ優勝に貢献。新日鐵広畑では都市対抗出場7回。88年のソウル五輪銀メダル。現役引退後は新日鐵君津監督、日本代表コーチを経て2004年秋から早大コーチ、05年春から監督。6年12シーズンで6度の優勝に導き、10年秋に勇退。18年8月に崇徳高の監督に就任した。

文=岡本朋祐 写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング