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週べ60周年記念

鶴岡一家の結束にほころび?/週ベ回顧

 

 昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。

後藤クマさんに渡航許可が下りず?


表紙はサンケイ別所毅彦監督


 今回は『1967年12月4日号』。定価は60円。
 
「プロなら巨人」と明言していた明大・高田繁は希望どおり、巨人から指名された。
 当時の六大学安打記録も作った俊足選手で、鹿児島生まれで2歳のとき大阪へ。少年時代は南海ファン。「ホークス子供の会」にも入っていた。浪商高を卒業するとき、自宅に鶴岡一人監督が訪れ、「君を育ててみたい」と声をかけられたというが、大学時代であこがれが巨人へと変わった。

 大学組では、早大の三輪田勝利が近鉄を拒否し、大昭和製紙へ。慶大の藤原真は南海を拒否し、鐘紡に入った。藤原は「巨人かサンケイに行きたかった。パ・リーグには魅力を感じない」と話している。

 2リーグとなって初めてBクラス4位となった南海(それ以前9回優勝、2位8回。3位すらない)は、サンケイの前監督・飯田徳治、二軍コーチの岡本伊三美がコーチとして“出戻り”。一方、森下整鎮コーチは、「新スタッフではやる気がしない」と辞表を出した。
 森下は岡本と手が合わず、理由は
「あいつは派閥をつくるやつや」だった。
 森下は鶴岡監督の一の子分とも言われた男。鶴岡一家と呼ばれ、鉄の結束を誇った南海が少しずつ崩壊を始めていたようだ。
 
 ほかの南海への出戻りは、西鉄に移籍していた渡会純男。ファームのサブコーチに就任した。南海時代は、現役というより、ほぼブルペン捕手。ただ、当時から「カラスが鳴かない日があっても、渡会が練習を休むのを見たことはない」というほどの練習の虫だった。
 試合中はヤジ将軍として知られ、試合で負けた後、壁をげんこつで殴って、骨にひびが入ったこともある。
 サブコーチと言っても、選手登録はしてあったようで、68年65試合、69年32試合、70年39試合、71年25試合の出場歴がある。
 すべて偵察要員だが。

 裏方といえば、中日から巨人へ野口勝治が移籍した。役目は打撃投手だ。
「バッティング投手専業を言われたとき、野球をやめようと思った。でも、まだ未練があったので、バッティング投手で一流になってやれと自分に言い聞かせた」
 という。
 巨人の選手たちが、中日球場のオールスターの打撃練習で野口に投げてもらった後、川上哲治監督に「あんな投手がいたら助かります」と言ったのがきっかけだったらしい。

 交流戦が大正力の反対で事実上廃案となったが、東京・永田雅一オーナーは次なる提案をした。
 11月3日のセ、パ合同会議で、下位3球団を1年ごとにセ、パで入れ替えること。もう一つはフランチャイズの再編成。ただ、これも交流戦同様1年の継続審議となった。

 阪神広島と合同で沖縄遠征をおこなったが、普段から
「ワシは背中にピストルを突き付けられても飛行機には乗らん」
 と言っていた藤本定義監督は当然、同行せず。クマさんこと、後藤次男コーチが指揮を執ることになったが、なぜか外務省から当初、渡航許可が下りず(当時の沖縄は占領下)、「身分証明書の写真がクマに見えたのでは」「熊本出身者は沖縄に入れないんだ」などジョークもまじえ、大騒ぎとなったが、単なる外務省のミスと分かって一安心だった。

 では、また月曜に。
 
<次回に続く>

写真=BBM
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