週刊ベースボールONLINE

ライオンズ「チームスタッフ物語」

成功があれば失敗も。埼玉西武スコアラーの泣き笑いの日々/ライオンズ「チームスタッフ物語」Vol.03

 

首脳陣を含めて91人――。ライオンズで支配下、育成選手72人より多いのがチームスタッフだ。グラウンドで躍動する選手たちだけではなく、陰で働く存在の力がなければペナントを勝ち抜くことはできない。プライドを持って職務を全うするチームスタッフ。獅子を支える各部門のプロフェッショナルを順次、紹介していこう。

涙が出るくらいうれしかったこと


埼玉西武亀井猛斗スコアラー


 あれはスコアラー生活11年目、2004年のことだ。西武は伊東勤監督(現中日ヘッドコーチ)の下、プレーオフを勝ち抜いて日本シリーズ進出を決めた。相手は落合博満監督率いる中日だったが、当時まだ交流戦は行われていない。しかも、プレーオフ終了から日本シリーズ開幕まで4日しか間はなかった。圧倒的データ不足。チームとともに西武ドーム(現メットライフドーム)近くのホテルに泊まり込んだ亀井猛斗スコアラーは中日投手陣の研究に明け暮れた。

「当時、僕が知っていたのは川上憲伸山本昌さんくらいです。あとはほとんど分からない。だから、とにかくずっと投手の映像を見ました。3日くらい、ほぼ寝ないで弱点やクセを探して。足を武器にしていた選手も部屋に映像を確認しに来ていましたね」

 三日三晩、夜を徹した作業はしかし、いつしか限界が来る。重くなる瞼に抗えず、朝方眠ってしまっていた。パッと目覚めて、「やばい、寝てしまった」と独りごちたそのとき、テーブルの上に栄養ドリンクが置かれているのが目に入った。そばには「いつもお疲れ様です。大変ですが、頑張ってください」という書置きが。部屋に出入りしていた赤田将吾(現一軍打撃コーチ)、柴田博之からの差し入れだった。

「涙が出るくらいうれしかったですね。1つのアウトを取ってもらう、1本のヒットを打ってもらう。そのために有益な情報を選手に渡すのがスコアラー。『助けてください』と言われたときに助けられるように、とあらためて強く思いましたね」

イチローから奪った三振


 亀井スコアラーは1987年、群馬県立中央高(現中央中等教育学校)からドラフト5位で西武に入団し、“工藤公康二世”として期待された左腕だった。だが、芽が出ず、一軍登板はわずか2試合に終わり、93年限りで現役引退。翌年から打撃投手を務めながらスコアラーの勉強もスタートさせたが、95年のマウイキャンプで先輩の植上健治スコアラーが急死したことにより、スコアラー専任となった。

 80年代から黄金時代を築き上げた西武のスコアラーは「球界の007」と称され、当時も玉井信博スコアラーをはじめ、スゴ腕ぞろい。場数を踏んだベテランたちの薫陶を受けながら、さらに東尾修監督に「豊倉に仕込んでもらえ」と指示を受け、西武からダイエーに転じていた豊倉孝治スコアラーにも師事した。

「もちろん、チームの機密事項をもらさないのが鉄則ですが、教えを乞うたらアドバイスをくれました」

 先輩たちから常に言われたのは、とにかく「見ろ」ということだった。

「『スコアラーの仕事は10のうち9はムダだ。でも、選手に何かを聞かれたときに、すぐに答えられるようにしておかないといけない』と。選手から信頼を得るには的を射た意見を伝えるしかありませんから。だから、例えば試合前の練習開始時から球場へ行って、あの打者はどういうスイングをしているか、あの投手はどういう練習をしているのか、観察して。見ることで、目を養っていきましたね」

 それが実を結んだことで覚えている場面がある。97年、イチローが216打席連続無三振の記録を作ったシーズンだ。94年に210安打を放ち、そこから3年連続首位打者に輝いていた稀代の安打製造機からなんとか三振を奪えないか。目を凝らしてイチローの打撃を分析しているとき、ある右投手が内角に投じようとしたスライダーが外角へすっぽ抜けた。それに対し、イチローがまったくタイミングが合わないスイングをしたのに気が付いた。

「“これじゃないか!”と思って。ウチにスライダーの魔術師、西口(文也。現一軍投手コーチ)がいる、と。当時は今みたいにバックドアのスライダーをほぼ誰も投げていなかった時代です。“外スラ”の有効性に気が付いて、それを伊東さん、西口のバッテリーがしっかりを実行してくれてイチローから三振を奪えたんです。そのときは“見てきたかいがあったな”と思いましたね」

エルドレッドに打たれた一発


 もちろん成功ばかりではない。失敗も多々ある。いま思い出しても悔しさが募るのは2013年6月8日の広島戦(マツダ広島)だ。西武・岸孝之(現楽天)、広島・中崎翔太、両先発の投げ合いとなったこの試合。試合はエルドレッドの一発で決まった。

「チームには元広島のサファテ(現ソフトバンク)がいて、『エルドレッドはストレートしか待っていない』と言っていましたが、僕は内角のストレートを打たれても良い当たりはフェアゾーンに飛ばないと確信していました。それで1打席目はショート内野安打になりましたが、カーブを引っ掛けさせました。次の打席は頭の中はカーブでいっぱいなるから早いカウントで内角へストレートを投じても打てない。プランどおりに岸は投げてくれたんですが、それをホームランにされて……。結局、0対1で負けてしまいました」

 スコアをつけてはいたが、本塁打を打たれた以降の試合展開はまったく覚えていない。のちに後輩スコアラーに「亀井さん、あのときはまったく目の焦点が合っていなくて、ボーっとしていましたよ」と言われた。あまりの悔しさに帰りのバスの中で岸、炭谷銀仁朗のバッテリーに泣き崩れながら謝罪した。

「あとでカープのスコアラー聞いたら、『あれは年に1本出るか出ないか。まぐれですよ』と言っていました。今でも『間違っていない』と思っていますが、結果的にあのホームランのみで負けたから『間違い』なんです」

 この失敗以降、万全を期すため、経験の浅いスコアラーにも聞くなど、より多くの人の意見に耳を傾けて参考にするようになったという。

スコアラーは天職


 主に「先乗り」と「チーム付き」に分かれるスコアラー。昨年から西武では先乗りスコアラーを2人から3人にする体制を試していたが、首脳陣からも好評で、今年から本格導入した。

「3人のスコアラーが対戦相手を1週間前から追います。6試合じっくりと見て、対戦するときにチームに合流。私はいまチーム付きのバッテリー担当ですが、先乗りが見てきた生の情報とすり合わせて精度を高めたデータを首脳陣、選手に渡すようにします」

 選手への伝え方にも細心の注意を払う。

「一人ひとり、性格が違いますから。森繁和さん(現中日SD)が現役を引退して、すぐに西武の二軍投手コーチになったんですけど、森さんを見て学びました。森さんは人を見ながら言い方を変えていたんですよね。それが大事。でも、なかなか難しい。永遠のテーマだと思います」

 でも、と言って、亀井スコアラーは続けた。

「昔の手書きから、いまはパソコンでデータをまとめられるようになりました。とはいえ、どれだけデジタル化が進んで便利になっても、機械が選手に言葉で攻略法を伝えることはできません。そこが僕らの仕事で、存在意義があるところだと思います」

 スコアラーの矜持をのぞかせた亀井スコアラーに、最後に聞いてみた。自身にとって、スコアラーは天職だと思うのか、と――。

「そう思います。それこそ、キャンプで僕の姿を見た植上スコアラーが玉井スコアラーに言っていたそうなんです。『いいのおったで。将来、現役がダメになったら、あいつはスコアラーにしたほうがいい』と」

 その理由は分からない。だが、例えば1年目、野球留学でアメリカへ行っていたが、そのときに書いていたリポートも球団から高評価を受けていた。さらにファームでプレーしているときもスコアをつけたり、ビデオ係を進んで務めたりした。スコアラーとしての素地はもともと兼ね備えていたのかもしれない。

「かなり気を張る仕事ですからね。生まれ変わっても、またやりたいかと言われたら……」と苦笑いも浮かべたが、充実感あふれる顔を見ると、人生を歩み直してもまたスコアラーを務めそうな気がする。

(文中敬称略)

文=小林光男 写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング