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プロ野球回顧録

巨人相手に鋭さを増した反骨の“カミソリシュート”平松政次/ホエールズ&ベイスターズ70年企画

 

現在、ホエールズとベイスターズ、70年の歴史をまとめた『1950-2019ホエールズ&ベイスターズ70年の航跡』が発売中だ。同書に球団の選手、関係者の証言で歴史を振り返る「時代の証言者」を掲載しているが、同企画をここに公開する。

巨人からドラフト1位の確約も……


ジャイアンツに抱いたあこがれが、巨人キラーとなる原点だった


 反骨のカミソリシュート――。

 球団の歴史を通じ、ただ一人の200勝を達成したピッチャーであり、1960年代後半から80年代前半にかけ巨人戦では無類の強さを発揮したホエールズの殿堂入りエース・平松政次

 通算勝利数201のうち、巨人からの勝ち星は実に51を数える、まさに“ジャイアンツキラー”だった。長嶋茂雄王貞治といった綺羅星のごときスター軍団を前に、平松は湧き上がる高ぶりを抑えられなかったという。

「巨人戦の前は、3日前から入れ込んでいましたね。飯は食えない、眠れない。興奮状態で当日を迎えていましたね」

 岡山東商業高校時代、センバツ甲子園大会で優勝投手となると、平松はドラフト会議で中日に4位で指名された。しかし意中の球団があり、これを拒否。平松が望んだのは少年時代からファンだった巨人への入団であり、とくに長嶋茂雄に心酔していた。

 翌66年、平松は日本石油へ進むと都市対抗野球で活躍し、巨人から晴れてドラフト1位指名の確約をもらうまでになった。だが運命は流転する。土壇場で巨人から反古されてしまい、大洋から2位指名を受けた。

 ドラフトではよくある話だが、当事者からすればたまったものではない。

「巨人に入ったものだと思っていたので、だまされたなと。今に見ておれという気持ちでしたし、ここは巨人キラーになるしかないと」

 この悔しさから生まれた反骨心が、その後の原動力になったのは想像に難くない。

 だが当時、納得できぬ思いもあり大洋との入団交渉は難航した。球団は岡山東商高の先輩であり、チームの主力だった秋山登土井淳を郷里へ派遣するなど懐柔を試みた。結果的に平松は翌年、やり残していた仕事と位置づけていた都市対抗野球で優勝し、MVPを獲得すると入団を決意する。優勝を決めたのは8月8日だったのだが、実は入団交渉の期限は2日後の10日に迫っており、ぎりぎりの判断だった。次のドラフトを待つこともできたが「乞われて行くのも男だ」と周囲の説得もあり決断している。

愛憎入り混じる炎のピッチング


 鳴り物入りで入団した平松だったが前途は多難だった。シーズン途中の加入となった67年は3勝、翌年は5勝と低迷した。

 このままではクビだと覚悟した3年目、ついに代名詞となるシュートをマスターする。社会人時代から投げ方は知っていたが、それまでまともに投げたことはなかった。春季キャンプのとき、主力の近藤和彦から「そんなへなちょこボールしか投げられないのか」と言われ、腹を立てて投げたシュートが驚異的な変化をした。右打者にホップするように食い込んでくる軌道。首脳陣の誰もが驚愕した。

 平松はこの年からシュートを武器に、12年連続2ケタ勝利を挙げるなど、ホエールズの絶対的エースに君臨する。平松いわくシュートばかりでなく、地道に取り組んできたフィジカルトレーニングも功を奏したという。下半身が強化されたことでストレートの球速が上がり、制球力が高まった。打者は同じ腕の振りから投げられるシュートとストレートに面白いように翻弄された。

 そして巨人戦はもとより、あこがれだった長嶋との対戦は普段以上に力が入った。

「あの人がユニフォームを脱ぐとき『平松ってすごいピッチャーがいたな』と、私の存在を胸の内に残してもらいたかった」

 愛憎入り混じる炎のピッチング。通算成績は181打数、打率.193と完全に封じ込んだ。あの稀代の天才が平松との対戦のときだけはグリップを短く持ちかえたという逸話も残っており、また「平松のシュートはカミソリのようだ」という長嶋のコメントが“カミソリシュート”の語源になっている。

 ホエールズ一筋18年、優勝の味を知ることはできなかったが、巨人と長嶋という好敵手によって誰よりも光り輝いたその姿は忘れられない。

文=石塚隆 写真=BBM
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