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プロ野球1980年代の名勝負

清原がデビュー戦で初本塁打(1986年4月5日、西武×南海)/プロ野球1980年代の名勝負

 

プロ野球のテレビ中継が黄金期を迎えた1980年代。ブラウン管に映し出されていたのは、もちろんプロ野球の試合だった。お茶の間で、あるいは球場で、手に汗にぎって見守った名勝負の数々を再現する。

南海が勝ったのに……


プロ初本塁打に全身で喜びを表す清原


 1986年、黄金時代の真っ只中にいる西武が本拠地の西武球場で迎えた開幕第2戦。勝ったのは暗黒時代ともいうべき南海だった。ただ、8回裏まで6安打2四球と走者こそ出したものの、3併殺と落ち着いて後続を抑え、あわや完封という好投で完投勝利を収めた藤本修二は、試合後のインタビューで、

「勝利投手なんですけど……」

 と苦笑い。聞かれるのは通常の勝利投手に対する質問ではなく、西武の大型新人についてばかりだった。清原和博だ。6回表の守備から一軍初出場、迎えた第2打席で放ったプロ初安打がプロ初本塁打に。いくら暗黒時代の南海とはいえ、黄金時代の西武から奪った金星でさえ注目されるのは西武の新人、という事態に多少の不条理は感じるものの、それだけ清原という新人が世間の注目を集めていたという1つのエピソードに過ぎない。

 PL学園高で1年生の夏から四番打者として5季連続で甲子園に出場し、優勝2回、準優勝2回、ベスト4が1回。同学年でエースの桑田真澄との“KKコンビ”で沸かせ、甲子園通算13本塁打の大会新記録も打ち立てた。

 清原は巨人にあこがれ、ドラフトでも指名が確約されているとも言われていたが、巨人が指名したのは早大への進学を表明していた桑田。清原は記者会見で巨人の“裏切り”に唇をかみ、涙を流した。この“事件”で、ますます世間の注目は清原へ集まっていく。一方、ドラフトで清原には6球団が競合。清原は「アンタが勝手に惚れて、振られたんやないの」という母の言葉で気持ちに区切りをつけ、交渉権を獲得した西武へ入団した。

 果たして清原はプロで通用するのか……。一抹の不安も入り混じった周囲の期待は高まる一方だったが、黄金時代の西武がプロでの実績もない高卒ルーキーに、おいそれとレギュラーの座を与えるわけにもいかない。さらには、オープン戦では本塁打ゼロ、しかも三振の山。土井正博コーチとマンツーマンで連日の打ち込みと1日800スイングの練習を重ねる。

 さしもの黄金ルーキーも、開幕一軍こそ果たしたものの、4月4日の開幕戦ではスタメンに選ばれず、そのまま出番なし。だが、翌5日の第2戦では、試合が南海ペースとなったこともあって、出番が巡ってきた。

バンザイしながらダイヤモンドを一周


 6回表、六番の片平晋作に代わって一塁の守備に就き、初めてプロ野球の公式戦に立つと、プロ初打席は7回裏、一死二、三塁のチャンスで回ってくる。フルカウントから藤本の投球を見極め、四球。そして迎えた第2打席。9回裏二死、“あと1人”の打者だ。

 清原は初球、内角への速球を思い切り良く振り抜くと、打球は左翼の芝生席へと吸い込まれ、プロ初本塁打に。清原は一塁を回ってジャンプ。そのままバンザイをしながらダイヤモンドを一周した。続く大田卓司が中飛に倒れて西武は敗れたが、世間の関心は、このゲームの勝敗ではなかったのだろう。

「うれしくて早くダイヤモンドを一周してもうた」と声を弾ませた清原だったが、オープン戦は不振だったことから「当分は打てへんかと思うてました」と、ホッとした表情も見せた。

1986年4月5日/西武−南海2回戦(西武)

南海 010 030 000 4
西武 000 000 002 2

[勝]藤本修(1勝0敗0S)
[敗]渡辺久(0勝1敗0S)
[本塁打]
(西武)清原1号

写真=BBM
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