昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 東洋カープのスタート
今回は『1967年12月11日号』。定価は60円。
東映・
水原茂監督が電撃辞任となった。
きっかけは、水原監督が大川博オーナーに「契約をしたい」と言ったことからだったという。
なんのことか分からないかもしれないが、実は、水原監督は
巨人監督時代、正力松太郎オーナー(当時)の「俺は一生お前の面倒を見る」という言葉もあって、契約書も交わさず、契約金交渉をしたこともなかった。
東映でも大川オーナーから同じように言われ、正式契約せずにやっていたのだが、ウワサで聞く他球団の監督に比べ、自分の年俸が低かったこともあり、「やはりこのままではおかしい」と、水原が契約を申し込んだ。
しかし、東映・大川オーナーは、それを「契約金を要求するつもりではないか」と警戒し、反発。結局、水原の後見人的存在だった野村証券の瀬川美留会長が間に入り、2年目契約を結ぶことになった。
しかし、その後、11月24日になって、大川博オーナーの息子で35歳にしてオーナー代理となっていた毅が、水原を呼び出し、「大下(弘)をヘッドコーチ、藤村(冨美男)を打撃コーチに決めた」と一方的に通告した。
ご存じのとおり、大下は東映OBで、現役時代は「青バットの大下」と人気があったスーパースター、藤村もまた、「ミスタータイガース」と言われた、大下に負けず劣らずのスーパースターだ。
水原監督は「それほど大物2人が打撃を指導し、仮に違うことを言うと選手が混乱する」と反対。実は、それ以前にも、自分を蚊帳の外に勝手にトレード話が進むなど、水原の大川ジュニアへの不信感が募っていた。
翌25日にも水原、大川オーナー代理の会談。このとき水原は、すでに腹を決めていたようだ。
「現場の指揮官が知らないうちに決めて、それでやれと言われても、優勝への確信は持てません」
水原がそういうと、大川代理は、
「確信が持てないならやめてもらうしかない」
それに対し、水原は、
「そうですか。それではやむをえません」
と辞任を告げた。
実は、そのわずか5時間後、東映は
大下弘の監督就任を発表。「手回しがいいですね」と記者に言われ、「これが大川商法だよ」と大川博オーナーが語ったという。
間に入った瀬川とのつながりもあって、水原が自ら辞めるよう仕向けたということらしい。
大川オーナーは「契約は」と聞かれ、「そういうものではないと思っている。心と心の問題だ」と答えている。
以前、東映(球団)関係者、OB選手に水原監督退任の裏話を聞いた際、「息子さんと合わなかったらしい」という話を聞いていたが、今回の記事を読む限り、オヤジさんも、なかなかのものだ。
「カネは出さぬが、口は出すでは強いチームはできない」
と話していた松田恒次オーナーの
広島“東洋”カープが本格始動。すでに東洋工業は球団の株式の過半数を持っていたが、さらなる株の購入に動き始めた。
ただ、広島の場合、後援会の個人株主も多く、みな自分たちがカープを支えてきたというプライドもあった。反発の声も多かったようだ。
問題は以前も触れたように、市民球団だから、県民球団だからと廉価で使用してきた広島市民球場の使用料だ。国有地に建設したものだけに、東洋工業の企業球団になると、使用料が上がり、球団経営を圧迫するのでは、との声もあった。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM