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プロ野球1980年代の名勝負

落合が史上最多3度目の三冠王に輝いた1つの要因(1986年4月6日、ロッテ×阪急)/プロ野球1980年代の名勝負

 

プロ野球のテレビ中継が黄金期を迎えた1980年代。ブラウン管に映し出されていたのは、もちろんプロ野球の試合だった。お茶の間で、あるいは球場で、手に汗にぎって見守った名勝負の数々を再現する。

秋田県出身のライバル対決


山田のシンカーをホームランにした落合


 2018年、夏の甲子園で“金農旋風”を巻き起こした秋田県。エースの吉田輝星日本ハムへ入団し、迎えた19年には早くも一軍デビューを果たしてプロ初勝利も挙げたが、1980年代のプロ野球には秋田県出身の名選手が投打にいる。

 投手は阪急の山田久志、打者はロッテから中日へ移籍した落合博満だ。山田の全盛期は70年代といえるが、落合は80年代、ロッテ時代に三冠王3度と、当時の球界で打者の頂点を極めていた。最初の三冠王は史上最年少での戴冠となった82年だったが、32本塁打、99打点、打率.325で、評論家から「あんな低い数字では意味がない」と言われてしまう。

 圧倒的な数字を残したのが2年連続となった85年と86年だ。85年は52本塁打、146打点、打率.367。翌86年は50本塁打、116打点、打率.360で数字は下げているが、特に本塁打は、シーズン55本塁打という王貞治(巨人)が持つ当時のプロ野球記録も射程圏に入れながら、若手に出番を譲り、終盤は試合に出場していない。出塁率.487は85年に規定が改められて以降のプロ野球記録。前年の三冠王ということでマークも厳しくなったはずだが、それでもなぜ、2年連続3度目の三冠王というプロ野球で唯一の結果を残したのだろうか。

 もちろん、84年オフに信子夫人と結婚したこと(?)など、いくつもの要因があるだろうが、その1つとして考えられるものが山田の回顧から見えてくる。通算200勝に到達した試合で3本塁打を浴びるなど、数々の名勝負を繰り広げてきた山田は「落合が台頭してきたときには、私は駆け引きを駆使して相手を抑えこむ投球スタイルにシフトチェンジしていた」と矜持を見せながらも、こうも振り返る。

「最初、落合はシンカーを打つことができなかった。だけど、いつの日からか、ことごとく打たれ始めた。私にも意地があるから、なんとかシンカーで抑えようと投げ込む。だけど、右に左に、自由自在に打たれてしまう。やっぱり、落合が優れているのはエース級のウイニングショットを打ち崩すこと。読みと技術、それを兼ね備えた打者は、なかなかいない」

 山田が振り返る「いつの日」を特定するのは難しい。ただ、象徴的なのが、86年4月6日、川崎球場での開幕戦だ。この開幕戦で山田のシンカーを巧みに右翼席へ運んだ落合は、プロ野球で初となる3度目の三冠王へと好発進を切る。

シンカーを見極めた瞬間


 試合は1回表に先制した阪急のペース。先発の山田は、たびたび走者を出しながらも、4回裏には落合を併殺に打ち取るなど得点を許さない。6回裏には先頭のリーに中前打を許すと、続く四番の落合がシーズン初安打となる二塁打。それでも後続を断ってピンチを切り抜ける。そして、阪急の5点リードで迎えた8回裏、先頭の西村徳文が左前打で出塁も、2者連続で凡退、西村は一塁から進めないまま、二死から打席に落合が入ると、その瞬間が訪れる。

 3ボール1ストライクからの5球目だった。それまでは、すくい上げて打とうとしていたシンカー。それを、上からつぶすイメージで攻略してシーズン第1号に。ただ、この2ランがロッテ唯一の見せ場。阪急は9回表にも1点を追加して、軍配は完投した山田に上がっている。

1986年4月6日
ロッテ―阪急1回戦(川崎)

阪急  100 000 131 6
ロッテ 000 000 020 2

[勝]山田(1勝0敗0S)
[敗]村田(0勝1敗0S)
[本塁打]
(ロッテ)落合1号

写真=BBM
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