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パンチ佐藤の漢の背中!

田野倉利男[元中日ほか]「昼は徽章の仕事、夕方から野球スクールで若さのエキスをもらっています」/パンチ佐藤の漢の背中!

 

「山十徽章」は「やまじゅうきしょう」と読む。スポーツの大会で賞品や記念品として授与されるトロフィー、メダル、旗、メダルなど諸々のアイテムを取り扱う会社だ。80年代の中日ロッテで渋い内野手として活躍した田野倉利男さんは、この会社を経営する2代目社長。田野倉さんを訪ねて、神奈川県相模原市まで行ってきました!

“江川キラー”誕生のきっかけは目をつぶって打った3ラン?


パンチ佐藤[左]、田野倉利男氏


 中日時代、入団9年目の1981年にレギュラーを獲得。翌82年の球団応援歌『燃えよドラゴンズ!』3番の歌詞で「八番・田野倉躍り出る♪」と板東英二さんが歌ったのを記憶している読者も多いのではないだろうか。

 内野なら、どこでも守れるユーティリティープレーヤー。ロッテに移籍してからは、“左キラー”の代打を中心に、存在感を放った。

 ちなみにロッテ移籍時に着けた背番号は『10』。87年、背番号『4』に変更し、『10』番を譲った相手は奇遇にも、パンチさんの亜大の先輩で、本対談にも登場してくれた古川慎一さんだった。

パンチ 田野倉さんが中日に入団した1973年ごろのプロ野球のムードは、どんな感じだったのでしょうか。

田野倉 今みたいに練習場も完備されていないしね。特にオフ、12月の丸1カ月間は何もしちゃいけないような時代だったから、今とはまったく野球が違う。またパ・リーグに行っても野球が違ったね。

パンチ 85年、ロッテに移籍されたときですね。どう違うんですか?

田野倉 練習量が違ったんですよ。中日よりロッテのほうが、練習量が多くて、それで俺はロッテに行ってから生き返っちゃった。

パンチ ドラゴンズは、どなたが監督をしていらした時代ですか?

田野倉 与那嶺(与那嶺要)さんのときに入って、中(中利夫)さん、近藤(近藤貞雄)さん、山内(山内一弘)さん。

パンチ 確かにあんまりガンガン練習をするタイプの監督さんではないですね。

田野倉 そうなの。今のプロ野球選手は、ほとんど休まないでしょ。俺のころ、今みたいな練習をしていたら、もうちょっとできたと思うよ。思わない?

中日時代は背番号8。当時全盛期だった江川卓投手[巨人]との対戦を得意にしていた


パンチ そうですよねえ。とすると田野倉さん、現役時代の一番いい思い出はロッテ時代ですか?

田野倉 それは中日時代なんだ。サヨナラホームラン。中日が優勝した1982年、ナゴヤ球場の大洋戦(9月2日)で、こっちは星野(星野仙一)さんが投げていてね、斉藤明夫が抑えで出てきた最終回に、サヨナラホームラン。

パンチ じゃあ、その試合に田野倉さんが打ってなかったら、優勝できなかった可能性もあるわけじゃないですか! 世代的には、全盛期の江川(江川卓=巨人)さんと対戦しているくらいですよね。あのころの江川さんの球は違いましたか?

田野倉 でもね、俺、札幌円山球場で江川と初めて当たったとき、目をつぶって打ったら、ホームランになっちゃったんだよ。

パンチ ええっ、本当ですか!?

田野倉 1、2、3で打ったら当たったんだけど、どこに飛んで行ったか、自分では分からなかった。それが逆転3ラン(笑)。そこから江川は俺に真っすぐを放らなくなったんだよ。とすれば、カーブを待っていればいい。アイツのカーブは、打ちやすいんだよね。

パンチ どこに飛んで行ったか分からないっていうのが、実は一番いい打ち方なんですよね。インパクトしか見ていないわけですから。

田野倉 あのころの江川は速かったからねえ。もういいや、と思って1、2、3で振ったら、大当たり。

パンチ それも素敵な思い出の一つですね。

田野倉 俺、江川からは結構打ってるんだよ。変化球ばかりだけど(笑)。

パンチ 逆に、イヤな、あるいは苦い思い出はありますか。

田野倉 これも中日時代なんだけど、大洋戦でサブマリンの三沢(三沢淳)さんが先発していたとき、俺がショートを守っていて一死一、三塁からショートゴロ。ゲッツーだと思うじゃない。そこでなんか目に入って、思わずホームへ放っちゃった。ホームはアウトだったけど二死二、三塁になって、初球を松原(松原誠)さんに3ランされてね。

パンチ やっぱりそういうことはよく覚えているんですね。

田野倉 皆に迷惑をかけたからねえ……。三沢さんには本当、申し訳なかった。

ゲンちゃんの真っすぐに詰まらされ、覚悟した


85年にロッテに移籍したからは有藤通世落合博満らとプレー。引退後はコーチとして若手を育成した


パンチ 田野倉さんは、どうして引退を決意したのですか?

田野倉 自分の夢としては、東京ドームで一度野球をやってから辞めたいなと思っていたんだ。その東京ドームの初年度、日本ハムの左の河野ゲンちゃん(河野博文)の真っすぐに詰まらされてね。俺は右バッターで左(ピッチャー)専門だったのに、これじゃあもう、この世界で生きていけないな、と。

パンチ「おっ」と思ったのが、ピチャッと詰まって。

田野倉 せっかくもらったボールを詰まらされて、「ああ、これはもうちょっと難しいかな」と覚悟した。

パンチ 球団から戦力外を通告されたのですか?

田野倉 いや、有藤(有藤通世)さんが監督のときで、「ちょっと俺の手伝いをせい」と呼ばれたんだよね。覚悟していたとはいえ、自分ではまだちょっとはやれると思ってた。そこを半分無理矢理辞めさせられ、コーチにされたような感じ(笑)。

パンチ 選手とコーチの大きな違いといいますか、どこに一番戸惑いを感じましたか。

田野倉 自分にできたことを「なんでおまえ、できないの」みたいになっちゃいけないでしょう。そこでやはり、いろいろ勉強したよね。

パンチ 印象に残っている選手はいますか?

田野倉 平井(平井光親)や大村(大村巌)、初芝(初芝清)あたりが、ちょうど俺がコーチになったときの選手。大村なんかぶきっちょでどうしようもなかったのが、あれだけ長いことできたから。

パンチ 例えば大村君は、どんな選手だったんですか?

田野倉 イノシシだよ(笑)。俺がサードコーチャーで、「止まれ」と言ったって止まらないんだから。

パンチ これ、といったらそれしか見えなくなっちゃうタイプ?

田野倉 そう。左バッターと右バッターって、違うじゃない。でも走る方向は同じだから、左は開いてもいいけど右は開けない。彼は左のバッティングコーチに話を聞くと、そこで崩れちゃうんだ。それを修正していくのが一番のポイントだった。

パンチ あそこまで化けると思っていました?

田野倉 いいや、俺はもっと早く終わると思っていた。

パンチ どこで脱皮したんでしょうか。

田野倉 あれは、変化球の打ち方を覚えてからだと思うよ。もともと真っすぐは強いんだ。だけど変化球が打てないのは、どんどん突っ込んでいってしまうから。1、2、3のタイミングで真っすぐを打つなら、変化球は1、2、3、4だと。そこの“間”を教えてから変わったね。
パンチ コーチをしていて最も気を付けていたことはどんなことですか。

田野倉 選手を尊重することかな。

パンチ 今のコーチはそういう言葉を口にする人が多いですが、僕らの時代はなかなか……。

田野倉 少なかったかもしれないね。押し付ける人が多かったから。

パンチ なぜ田野倉さんは、それができるんですか。

田野倉 それは若かりし日の自分の経験上……(笑)。

パンチ やはり、そうなんですね(笑)。

「本当は、もっと野球に携わっていたかったんだけど、親父に帰ってこいって言われてね」

 1990年限りでロッテのユニフォームを脱ぎ、家業の有限会社山十徽章で父の下、働き始めた。1972年創業。トロフィー、カップ、メダル、楯など、あらゆる記念品をオリジナルで創作する会社だ。

 現在は、田野倉さんが取締役社長。徽章関係の事業のほか、『スポーツ事業部』では軟式、硬式ともに東京、神奈川で個別指導の教室を開いている。

飛び込み営業で断られたときは折れそうになったけど……


店内で語り合うパンチ佐藤[左]、田野倉氏


パンチ この会社は、もともとお父様が始めた会社なんですか?

田野倉 実は、俺がプロに行くときの契約金で親父が始めた会社なんです。

パンチ まず、どんな仕事から始めたんですか?

田野倉 外回りですよ。営業。

パンチ いきなりですか? どこまで営業に行ったんですか?

田野倉 ウチが卸しているのは運動具屋さん、会社関係、協会・連盟さんとか。でも1日外に出っぱなしで、仕事を取るのがこんなに大変なのかって思ったこともあったなあ。

パンチ「クソーっ」と思うことはなかったですか?
田野倉 ありますよ。飛び込みで行って、けんもほろろに追い返されたときとか。しょうがないんだけどね。

パンチ そんなときは、どうやって踏ん張ってきたのですか。

田野倉 我慢するしかなかったね。当時はまだ仕事の内容もよく分かっていなかったころだから。

パンチ お父さんからはどんなアドバイスがありました?

田野倉 何も教えてくれないのよ。自分で行ってこい、営業してこい、と言うだけで。でも親父に言われて一番ラクになったのは、「お前は社長じゃないんだから、そこで決めてこなくていいんだ」という言葉だったね。

パンチ お父さん的にはまず、「当たって砕けてこい」という感じだったんですね。どうでしょう。やっていけそうかなと思ったのは、どのくらい経ってからですか?

田野倉 3年くらいやってからかな。

パンチ やはり「石の上にも3年」とはそういうことなんですね。

田野倉 1、2年目はやっぱり、よく分からなかったよね。野球バカだったらなあ。そのころちょうどPCだなんだと普及したころで、自己流でも自分で扱うようになって、それから仕事の幅は広がったかな。

パンチ 田野倉さん、コンピュータなんか使えるんですか!?

田野倉 イラストレーター(描画ツールソフト)はじめ、いろいろなソフトの使い方を覚えてね。版下を作るのも外注しなくていいから、そういうのが大きかったかな。

パンチ しかし、こちらに並んでいるトロフィーや楯を見ると、僕らが子どものころとは全然違いますね。格好よくなったというか。

田野倉 昔は無駄にデカいヤツばかりだったけど、今は家も小さいし置くところもないでしょう。小さくて高級感のあるものが、主流になってきているね。

パンチ 今、一番の売れ筋はなんですか?

田野倉 今はメダル関係かな。もう、トロフィーだなんだっていうのはそんなに売れないから。それでもまだスポーツ系の業界には関係しているから、俺も入りやすくて良かったよ。

パンチ この世界は昔と比べて浮き沈みがあるんですか? それともヒットもなければホームランもない、平坦な感じなんですか?

田野倉 今は正直、下がっていく一方よ。あまり景気がよくないでしょ。で、何を一番に削るかといったら、こういうものを削る。

パンチ なんか味気ないですねえ。

田野倉 出しても、金額がかなり抑えられるとかね。だから、俺がここに入ってきてから、売り上げは半分になっているよ。

パンチ 子どもの数が減っているせいもありますかね。

田野倉 そうだね。加えてトロフィーやカップじゃなく、違うものにいく。例えばバスケットボールをやっている子は、ミニチュアのバスケットボールがトロフィー代わりになるとか。

パンチ それもやっているんですか?

田野倉 そこは運動具店の領域だから、向こうに仕事が流れていっているんだ。

パンチ 田野倉さんがモットーにしていること、「これだけは」と思っているこだわりは何ですか?

田野倉 やっぱりスピードかな。通常は1週間くらいかかるのよ。それを今日、明日で仕上げる。そうやって対応していかないと、今はインターネットにもいろいろあるからね。あとは、「アフター」の部分。ビフォーはあっても、アフターはない業者が多いから。

指導者への“指導”は「簡単なことで怒るな」


パンチ しかし田野倉さん、お若いですね。人は生き方が顔に出るといいますが、若々しさの秘訣はなんでしょう。

田野倉 今、昼間はこういう徽章の仕事をして、夕方から野球スクールをしているの。孫みたいな子たちと一緒にやっているから、そこで若さのエキスをもらっているんだろうね。

パンチ 子どもたちにはどんなことを教えているんですか?

田野倉 子どもに教えると言ったら、基本くらいだね。

パンチ 例えばどんなことから入りますか?

田野倉 キャッチボールはまずステップ。ステップしなさい。ノーステップじゃダメだよって、それは必ず言います。振ることに関しても、あまり細かくは言わない。とにかくバットが振れるように、家でも振ってこい、と。そのくらい。あとは、大人のほうの指導だね。

パンチ 大人の指導ですか。

田野倉 「簡単なことで怒るな」って言ってるの。試合で、監督がよく自分とこの選手をボロクソに言うでしょう。「自分はしっかり教えられませんでした」って、周りに大声で言っているようなものなんだ。その分、練習でしっかり教えなさい、と。

パンチ 確かに、自分は大声を出して気持ちいいかもしれませんが、聞いているほうも嫌になってしまいますよね。

田野倉「お前、やってみろよ」って思わない?

パンチ 思います。平日はスクールで、土日はお休みですか?

田野倉 千代田マリーンズという少年野球チームのオーナーになっているので、その試合を見たり、地方へ行ったり。

パンチ これからの子どもたちには、どんなことを期待しますか。

田野倉 まずは野球を大好きになってくれることかな。

パンチ 少年野球は、そうですよね〜。

田野倉 われわれだって、あんな厳しい時代に野球を続けてこられたのは、野球が大好きだったからでしょう。バカとかなんとか、頭ごなしに怒鳴られても、好きだから続けてきた。嫌いだったら、やらないよ。だけど今、中学生や高校生で「もう野球はやりたくない」とかいう、燃え尽き症候群の子が多いでしょう。われわれは、そういう子を作っちゃダメなんだ。楽しく、褒めながら、野球を好きにさせるよう指導していかないと、皆放り出しちゃうからね。

パンチ われわれのころと今の子どもたちの違いはどんなところですか?

田野倉 やっぱり怒られ慣れてないよね。ヘタしたら、親にも怒られたことがないから。それはもう、指導者も大変だと思うよ。

パンチ 田野倉さんにとって、野球とはなんですか?

田野倉 やっぱり人生だろうな。プロも今の仕事も全部、野球に絡んでいるからね。

パンチ 長嶋(長嶋茂雄=巨人終身名誉監督)さんも同じように「野球とは人生そのものだ」とおっしゃっていますよね。守っていて、「バカ野郎、ピッチャー、フォアボールばっかり出しやがって」って言ったら変な打球が来る。「頑張れ、頑張れ」ってやってると、うまくいく、とか。

田野倉 野球の神様がいるからね。

パンチ って言いますよね。子どもたちにもそんな話をされていますか?

田野倉 言いますよ。いつも野球の神様は見てるんだから頑張れよってね。

パンチの取材後記


 田野倉さんは、僕より10歳ちょっと上。正直、あの年代のOBはクセの強い方が多いのですが、田野倉さんはフワッと柔らかい雰囲気で、頭のキレる、発想の柔軟な方というのが僕の印象です。

 また、少年野球の指導についても、まず「子どもに野球を好きになってもらいたい」という、力強いお言葉。本当に「そのとおり!」と思いましたね。きっとプロ野球のコーチ時代も、選手の気持ちに寄り添った指導をしてくださっていたのではないでしょうか。僕が現役のときに、守備コーチだったらうれしかったのになあ。田野倉さんの指導を受けて開花した選手たちがうらやましいですよ。

 還暦過ぎてなお、ご自分の時間を仕事に、野球の指導にとフルに使って生き生きしていらっしゃる。そんな田野倉さんの人生もうらやましく、僕も見習いたいと思いました。

●田野倉利男(たのくら・としお)
1954年4月3日生まれ、東京都出身。早実では四番・遊撃手として活躍。73年ドラフト4位で中日に入団すると、76年ごろから一軍に定着。主に遊撃、二塁を守り、81年には113試合に出場し、14本塁打をマークした。85年にロッテに移籍し、内野のユーティリティープレーヤーとして活躍、88年限りで引退。通算成績は746試合、打率.237(317安打)、50本塁打、152打点。引退後はロッテ二軍コーチを務め、現在は神奈川県で(有)山十徽章の社長、少年野球チーム「千代田マリーンズ」のオーナーを務める。

●パンチ佐藤(ぱんち・さとう)
本名・佐藤和弘。1964年12月3日生まれ。神奈川県出身。武相高、亜大、熊谷組を経てドラフト1位で90年オリックスに入団。94年に登録名をニックネームとして定着していた「パンチ」に変更し、その年限りで現役引退。現在はタレントとして幅広い分野で活躍中。

構成=前田恵 写真=矢野寿明
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