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「横浜で優勝したい」誰もが愛した“永遠番長”三浦大輔/ホエールズ&ベイスターズ70年企画

 

現在、ホエールズとベイスターズ、70年の歴史をまとめた『1950-2019ホエールズ&ベイスターズ70年の航跡』が発売中だ。同書に球団の選手、関係者の証言で歴史を振り返る「時代の証言者」を掲載しているが、同企画をここに公開する。

ドラフト6位スタート


2008年シーズンオフにFA宣言。阪神移籍に心が動くも、横浜でもう一度優勝を目指すことを決意し、残留を発表した


「これからも三浦大輔は、ずーっと横浜です。ヨ・ロ・シ・ク!」

 2016年9月29日、横浜スタジアムで大観衆に見守られながら“ハマの番長”は、25年間の現役生活をそう言って締めくくった。ファンから愛され、そして誰よりもファンを大切にした三浦らしい最後の言葉――たたき上げのエースであり“ヨコハマ・ドリーム”を実現したピッチャーだった。

 奈良県に生まれ、地元の高田商業高の野球部に所属していた三浦は、高校2年生までは無名の存在だった。しかし当時から「プロになりたい」と公言し、まわりから呆れられていたというが、高校3年生のとき地元の名門である天理高を相手に好投し、スカウトの目に留まった。そして1991年のドラフト会議で6位指名され、晴れてプロ野球選手となり夢を一つ叶えた。ちなみに入団したシーズンは横浜大洋ホエールズ最後の年だった。胸に“YOKOHAMA”と入った白と紺のユニフォームに袖を通した選手として最後まで現役だったが三浦だ。まさに正真正銘の“最後のクジラ”である。

 ルーキー時代の三浦は、ひょろっとした体格で先輩たちに比べて非力な存在だったが、とにかく走りに走り、下半身をいじめ抜いたという。また競争の激しいなか、とりあえず首脳陣に目の付きやすい個性を持たなければダメだと、敬愛する矢沢永吉の影響もあり、その後トレードマークとなるリーゼントをするようになる。もちろん、そんな成りでは別の意味で目を付けられることになるが、三浦は文句を言わせないために誰よりも練習をした。

 そんな努力が実って三浦は、最終戦で投げる機会を与えられた。高卒下位指名のルーキーとしては異例の抜擢だった。

 1992年10月7日、この日は1950年の球団創設から続いたホエールズ最後の日であり、また横浜大洋を長年の間、エースとして支えてきた遠藤一彦の引退試合でもあった。この絶妙なタイミングで初登板をしたことを鑑みると、その後の三浦の四半世紀に及ぶ野球人生において大きな意味があったように思えてならない。

 三浦は、巨人相手に2イニングをパーフェクトに抑えデビューを飾った。対戦したバッターは吉村禎章岡崎郁村田真一大久保博元といった有名選手ばかり。初三振は球界屈指の好打者である篠塚利夫から奪っている。

遠藤の引退セレモニーを見て決意


 試合後の遠藤の引退セレモニーでは、巨人ファンも家路につくことなくハマスタにいたすべての観衆がハマのエースに温かい声援を送った。19歳の三浦はこの様子を見てすごく感動し、次のような決意をしたという。

「自分も遠藤さんのように素晴らしい引退セレモニーをやってもらえるような選手になろう。相手チームのファンにも『おつかれさま』と温かい声援をかけてもらえるような選手に」

 その想いは24年後、現実のものとなる。

 翌年からチームは“横浜ベイスターズ”として生まれ変わるわけだが、三浦にとっては“エースの時代”の到来を意味する。

 1993年9月4日の広島戦(北九州)で初勝利に加え初完封を達成すると、入団4年目の1995年にはローテーションに加わるようになる。そして1997年には初の2桁勝利を挙げると、翌年から代名詞となる背番号『18』を背負うことになった。三浦の引退後、『18』はチームを象徴する“横浜ナンバー”と呼ばれ、準永久欠番あつかいとなっている。

 三浦は入団したときから自分は150キロ以上の速球で勝負するピッチャーでないと自覚していた。だからこそボール1個分、いや半個分を出し入れする絶妙なコントロールとキレで勝負する技巧派への道を歩んだ。スライダーやシュート、フォーク、スローカーブなどを巧みに使い分け、最後は打者の裏をかき、外角低めのストレートで見逃し三振を奪う姿は、まさに真骨頂だった。時に相手の呼吸までも読み、絶妙の間合いで打者を翻弄する。

 キャリアのハイライトの一つとなったのは、やはり1998年のリーグ優勝と日本一だろう。三浦は10勝4敗の成績で、球団としては38年ぶりとなる優勝に貢献。日本シリーズでは大乱調となったが、他のチームメートの活躍もあり、プロになり初めて美酒を浴びた。こんな素晴らしい瞬間はないと心底感じ、「もう一度、優勝したい」という思いが、その後の三浦のモチベーションになった。

心が揺れたFA移籍騒動


 だが、ベイスターズは日本一以来、下降線をたどり“暗黒時代”と揶揄された2000年代に突入する。三浦は孤軍奮闘、エースとしてチームの先頭に立ち戦った。2005年には12勝を挙げ、最優秀防御率と最多奪三振の2冠となる。プロ14年目にして初めてのタイトルだった。しかし三浦が活躍をしてもチームは低迷を抜け出せない。年間100敗するのではないかと世間では嘲笑され、ハマスタのスタンドはいつもガラガラだった。

 そんな最中、三浦がファンにとって“永遠番長”となる出来事が起こる。2008年シーズン、三浦はFAの権利を取得した。オフになると去就に関する報道は過熱し、三浦は少年時代ファンだった地元関西の阪神へ移籍するのではないかとささやかれた。思うようにチーム力の上がらないベイスターズの状況を考慮すれば、当然の選択肢だといえる。

 だが、三浦は寸前で踏みとどまった。そうさせたのはファンの熱い思いだった。あらゆる報道が飛び交う最中、『ファン感謝デー』に参加した三浦は多くのファンから「番長、行かないでくれ!」「残ってチームを強くしてくれ!」と懇願された。それは三浦の心を揺さぶるのに十分だった。人として失ってはいけないものがある――三浦は残留を決めた。

「弱いベイスターズをいいチームにして、強いチームを倒し優勝するほうが自分らしい」

 この一件が決定打となり“横浜の三浦”としてプロ野球人生をまっとうすることになる。

 FA騒動も含め、25年間の現役生活は決して順風満帆ではなかった。二段モーション禁止や肝機能障害、ヒジの手術もあった。どの瞬間が野球人生で一番つらかったのか聞くと三浦はピッチャーとしての矜持をのぞかせた。

「結局のところピッチャーだからシーズン中に投げられないのが一番きつい。マウンドに立って打たれたら、また練習して取り返せばいい。けど、ケガをしてチームメートが頑張っているのにマウンドに立つことさえできない状況は、本当にしんどかったですね」

 チームの力になれないことが一番の苦痛だった。エリート選手ではなかったから、どうすれば勝てるのかと考え、工夫し、誰よりも練習をした。練習嫌いを公言していたほどだが、やらなければ生き残れないのは分かっていた。筒香嘉智山崎康晃ら現在活躍する選手たちは誠実に日々努力する三浦の背中を見ており、当然その想いは継承されている。

 引退するとき三浦に「二度目の優勝はなかったが後悔はないのか」と聞いた。すると三浦は「当然あります」と悔しさをにじませた。

「けど25年間もプレーできて、最後は盛大にセレモニーをやってもらえた。これ以上、ぜいたくを言っちゃいけないというか……ファンの想いも含め優勝以上のものを与えてもらいました。プロ野球選手としてこれ以上幸せなことはないですよ」

 現在、三浦は投手コーチとしてチームのために尽力している。今度は指導者として再び美酒を浴びる日を夢見て――。

文=石塚隆 写真=BBM
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