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プロ野球1980年代の名勝負

西武黄金時代の幕開けを告げた最後のプレーオフ(1982年10月14日、日本ハム×西武)/プロ野球1980年代の名勝負

 

プロ野球のテレビ中継が黄金期を迎えた1980年代。ブラウン管に映し出されていたのは、もちろんプロ野球の試合だった。お茶の間で、あるいは球場で、手に汗にぎって見守った名勝負の数々を再現する。

初進出の西武vs.前年Vの日本ハム


プレーオフで日本ハムを下して、リーグ優勝を遂げた瞬間の西武ベンチ


 近年はペナントレースの全日程終了後に行われるクライマックスシリーズも定着。勝率1位ではなくても2位、3位のチームが優勝する“下剋上”も見どころとなっているが、こうしたプレーオフは1980年代のパ・リーグにも存在した。ただしルールは異なり、シーズン130試合を前期、後期に分けて、前期と後期の優勝チームによる頂上決戦。導入された73年から、野村克也監督の率いる南海が前期の覇者となりながらも後期は1勝もできなかった阪急とのプレーオフを制する“死んだふり優勝”などのドラマがあった。そして、プレーオフ導入10年目となった82年。結果的に最後のプレーオフとなったが、その頂上決戦は、西武が黄金時代への第一歩を踏み出す舞台となった。

 チームが西武となり、埼玉の所沢へ移転して4年目。九州時代の低迷も尾を引き、1年目はプロ野球記録に並ぶ開幕から12連敗と最悪の船出で前期は最下位、後期は5位でシーズン通算では最下位という最悪のスタートを切ったが、翌80年の後期には早くも優勝争いに顔を出す。

 続く81年には通算勝率5割を突破。ここで西武は土台づくりから勝負に舵を切った。“寝業師”根本陸夫監督はフロントに転じ、“最後の補強”として広岡達朗監督を招聘。広岡監督は生活面からチームを鍛えていく。酒、タバコ、麻雀は禁止。食事は玄米。人呼んで“広岡式海軍野球”にベテラン選手らはソッポを向いたが、これも広岡監督の術中だったのか。東尾修田淵幸一大田卓司らベテランとの間には溝ができたが、就任1年目の前期から渇望していた優勝が見えてくると、がぜん顔色が変わってきた。

 そこで広岡監督は重要な役割を彼らに与える。このプレーオフの相手は、絶対的クローザーの江夏豊を擁する日本ハム。そこで、東尾は勝負どころのリリーフ、田淵は「四番・指名打者」、そして大田は江夏を攻略する切り札に。それぞれの持ち場で3人は躍動する。第1戦はバント攻めで江夏を翻弄、第2戦は大田が江夏を打って西武が2連勝。第3戦は日本ハムに惜敗して迎えた第4戦だった。舞台は敵地の後楽園球場。これまでの展開とは一転、勝負は空中戦となった。

5回表にテリーが逆転グランドスラム


第4戦、テリーの満塁弾で逆転に成功


 先制したのは西武。2回表一死満塁から捕手の黒田正宏がスクイズ、三走の田淵も激走して1点を奪った。だが、3回裏に日本ハムはクルーズ、ソレイタ古屋英夫の3人が本塁打を放って一挙4点。それでも西武は続く4回表にテリーがソロ。5回表には二死満塁からテリーに打席が回ると、2打席連続アーチとなる満塁弾で逆転に成功する。

 6回表にも黒田のソロで1点を追加。7回裏には日本ハムもソレイタの適時打で追い上げるも、東尾に代わってリリーフした小林誠二に抑えられ、万事休す。球団が西武となって初のリーグ優勝が決まった。

 ちなみに、翌83年からは1シーズン制に戻ったが、「1位と2位が5試合を戦って、ひっくり変える可能性があればプレーオフ開催」という条件つき。だが、西武は2位の阪急に17ゲーム差の圧勝でリーグ連覇を達成している。

1982年10月14日
日本ハム−西武 プレーオフ第5戦(後楽園)

西武   010 141 000 7
日本ハム 004 000 100 5

[勝]東尾(2勝0敗0S)
[敗]高橋一(0勝1敗0S)
[S]小林(0勝0敗1S)
[本塁打]
(西武)テリー1号、2号、黒田1号
(日本ハム)クルーズ1号、ソレイタ1号、古屋2号

写真=BBM
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