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週べ60周年記念

さすがミスター!/週ベ回顧

 

 昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。

自由自在な時代


表紙は巨人川上哲治監督


 今回は『1968年1月15日号』。定価は60円。
 
「高田との対談? いいね、俺の家に連れて来いよ。待ってるよ」
 さすがミスター! たぶん当時の編集部はそう言っただろう。

 巨人のドラ1ルーキー、明大・高田繁が学生服姿でミスター・ジャイアンツ、長嶋茂雄家を訪れ、対談。巻頭グラビアからたくさんのページを割いている。
 かつて長嶋入団時は川上哲治の自宅だった(当時コーチ。掲載ば月刊時代)。王貞治入団時は長嶋の下宿だった。
 なお、高田は、すでにフィアンセがいて、2ショット写真も載っていた。

 話がいきなり脱線するが、今ではプロ野球選手の自宅取材はまずできない(戦力外選手のテレビ番組くらいか)。

 時代が時代だから仕方がないし、まあ、正直、どうでもいい。
ただ、球場のセレモニーに子どもを連れてきて、グラウンドレベルまで入れカメラマンにふつうに撮らせながら、あとで球団から「子どもの顔が分からない写真を使ってください」と言われたときは思う。
 だったら、最初から言ってくれ。

 このころは自由自在だ。
 実は、この前の号でも、「プロ野球夫人部隊」のタイトルで夫人たちの写真名鑑があった(80人くらい)。
 当時は、家族で登場する企画が多いが、この連載内では“その愛が永遠かどうか”に気をつけている。永遠でない場合、写真だけではなく、記事でもできるだけ触れていない(N村さんのように)。

 ただ、永遠ではなかったが、この夫妻なら仕方あるまい。
 阪神藤本勝巳と歌手・島倉千代子夫妻である。
 今とは違い、当時、野球選手と芸能人の結婚は滅多になかった。

 その藤本が突然引退を球団に申し出た。
 一塁は遠井吾郎に奪われていたが、まだまだ力はある。球団としては代打の切り札として期待し、慰留もしたが、意思は変わらなかった。
「バカな男だといわれるかもしれませんが、いずれ何年か先に首になるなら、少しでも惜しまれているうちに去っていくほうがいいと思って決心したんです」
 引退後は球界の残らず、バー形式のクラブを開店予定という。天才肌で、起用法に対し、少しくさっていたのは確からしい。

 東映監督を退任した水原茂の連載手記では、大杉勝男を殴った話が載っていた。
 顛末はこうだ。

 韓国遠征の試合中だった。大杉は一塁を守っている際、捕球で足が早く離れすぎる癖があり、水原もいつも注意していたらしいが、この試合でも、アンパイアが大杉の足が離れるのが早いとセーフになったプレーがあった。
 問題はその次。同様のケースでアウトにしたとき、何度もベースを踏み、審判に「これでいいだろう」的な挑発行為をしたという。
 これに水原が激怒。ベンチでビンタをくらわした。

 誤解してほしくない。水原は大杉を高く買っていた。ただ、ふてくされると表情やプレーに出ることが多く、日ごろからほかの選手より厳しく接していたという。
 水原の思いは通じていた。大杉は水原を慕い、退任のときも真っ先に飛んできて泣いたという。
 水原は大杉が大下弘新監督の三無主義で、また気持ちが緩んでしまうのでは、と心配していた。

 広島の新名称が「広島東洋カープ」になった。東洋工業が事実上の親会社となったことで、「東洋カープ」になるのでは、とも言われたが、広島を残した形となる。

 新監督は根本陸夫。補強にも動き、阪神から大打者・山内一弘を獲得し、前監督・長谷川良平に対し、不満が多かった大和田明を放出した。
 山内は、阪神から突然移籍通告を受けたらしいが、一切ごねなかった。
 理由は、
「われわれは野球協約に基づいて生きているのだ。球団に保有権がある以上、じたばたしても仕方がない」
 だった。
 山内に関しては金銭的にドライだった、という人が多い。担当者が取材したのは、かなり後年の台北。海鮮系の屋台でご馳走になったが、優しい人だった(生ものが出て、少し怖かった)。

 その台湾で巨人がキャンプを張ることになった。国民的英雄・王貞治がいたことで台湾側から熱心に誘われたという。

 では、またあした。
 
<次回に続く>

写真=BBM
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