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プロ野球1980年代の名勝負

プロ野球で唯一の初登板ノーヒットノーラン(1987年8月9日、中日×巨人)/プロ野球1980年代の名勝負

 

プロ野球のテレビ中継が黄金期を迎えた1980年代。ブラウン管に映し出されていたのは、もちろんプロ野球の試合だった。お茶の間で、あるいは球場で、手に汗にぎって見守った名勝負の数々を再現する。

ドラフト1位の高卒ルーキーが快挙


最後の打者・篠塚を見逃し三振に斬って取り、ノーヒットノーランを達成した近藤


 1987年8月9日は日曜日だった。中日は本拠地のナゴヤ球場で首位の巨人と激突。3位ながら巨人と3.5ゲーム差と、まだまだ優勝も狙えるところにいた。この試合のゲームセットは20時53分という絶妙な時間。巨人戦でもあるから、もちろんテレビ中継はされており、瞬間最高視聴率は44パーセントだったという。視聴者の興味は優勝の行方ではなかっただろう。中日の高卒ルーキーが巨人を相手に初登板ノーヒットノーランという離れ業をやってのけるか、どうか。

 その新人とは18歳11カ月の近藤真一。地元の享栄高から相思相愛で、ドラフト1位で入団したばかりの左腕だ。打線も四番の落合博満が1回裏に2ラン、5回裏にも2ランを放つなどで6点を奪い援護していた。最後は巧打者の篠塚利夫を見逃し三振に斬って取り、達成。後にも先にも、この快挙はない。

 この試合の先発に就任1年目の星野仙一監督が近藤を指名した経緯は『プロ野球1980年代の名選手』で近藤を紹介した際にも触れた。その星野監督は試合後に「すげえヤツよ。(ノーヒットノーランができると思ったか、と聞かれて)思うわけないだろ。俺だって、やったことないんだ」と声を弾ませると、近藤をリードした捕手の大石友好は「(近藤の数少ない球種でもある)カーブとストレートのコンビネーションに気を使った。特に右打者への内角のカーブがよかった」と振り返る。

 近藤は全116球を投げて、バットに当てられたのは33度。13三振を奪ったがボール球も多く、八番の山倉和博には2四球を与えている。その他、内野ゴロ7、内野フライ2、外野フライ5。失策での出塁は1つで、7回表に代打で登場した鴻野淳基のゴロを二塁の仁村徹が弾いたものだった。この鴻野は、「巨人打線は近藤の球に全然、合っていなかったから、(ノーヒットノーランは)いくな、と思ったね」と振り返る落合が、「左投手の球を右に運ぶのがうまい」と最も警戒していた打者。9回表にも一死から打席が回り、緩いゴロを打つも三塁の落合が好守でアウトにしている。

巨人打線の証言


 首位に立ちながらも完璧に封じられた巨人の打者たちは、こう証言する。一番打者で、2打席連続で見逃し三振に倒れて6回表には代打を送られた駒田徳広は「コントロールがよかった。よくなかったら打てますよ」と渋い顔。二番で同じく7回表に代打を送られた岡崎郁は「タイミングを取るのが難しかった。次は必ず打つ」と悔しがった。2度の見逃し三振で、最後の打者にもなった三番の篠塚は「最後の球はボールだよ」と矜持を見せると、四番で2度の空振り三振に倒れた原辰徳は「野球人生でノーヒットノーランを食らったのは初めて」と脱帽。

 五番で見逃し三振2度のクロマティが「あれでルーキーか?」と目を丸くすれば、第1打席こそ空振り三振に倒れながらも、その後は2度も外野へ打球を飛ばすなど健闘した六番の吉村禎章は「真っすぐとカーブの緩急の差に戸惑った」と振り返る。絶不調に終わった“絶好調男”七番の中畑清は「カーブだな、問題は。フォークのようだった」と、いつになく冷静。八番の山倉だけは2四球と右飛で「よく分からん。1打席しか打ってないんだ」と言葉を濁した。

1987年8月9日
中日−巨人19回戦(ナゴヤ)

巨人 000 000 000 0
中日 300 030 00X 6

[勝]近藤(1勝0敗0S)
[敗]宮本(0勝1敗0S)
[本塁打]
(中日)落合23号、24号

写真=BBM
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