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プロ野球1980年代の名勝負

9回5時間17分のプレーオフ(1981年10月10日、ロッテ×日本ハム)/プロ野球1980年代の名勝負

 

プロ野球のテレビ中継が黄金期を迎えた1980年代。ブラウン管に映し出されていたのは、もちろんプロ野球の試合だった。お茶の間で、あるいは球場で、手に汗にぎって見守った名勝負の数々を再現する。

プレーボールから3連続四球


最終的にプレーオフを制したのは日本ハムだったが、第2戦は熱戦であり、乱戦だった


 1980年代、ほとんどのプロ野球ファンはテレビ中継で試合を観戦していただろう。ほとんどの場合、19時から20時54分、延長の場合は21時24分までが中継の時間だったように思う。

 中継が始まった19時は、すでに数イニングが経過した状態。20時54分に試合が終わっていることは(印象としては)滅多になく、21時24分に終わることも少なかった気がする。しかも、どういうわけか試合の佳境、いいところで終わるのだ(あくまでも印象)。そして、威儀を正したアナウンサーが報じるニュースや、お姉さんが伝える明日の天気予報を憮然として眺めることになる(もちろん、それも大事な情報なのだが)。

 逆に、野球中継の後に控えるドラマをビデオに録画予約していて、野球中継の延長によってドラマの佳境が見られなかった、という方もおられよう。すぐに終わってしまう試合も呆気ないが、長い試合というのも困りものだ。延長戦なら、まだ分かる。だが、9回までの試合なのに5時間17分もかかってしまったのが81年、ロッテと日本ハムのプレーオフ第2戦だ。

 2年連続で前期の覇者となったロッテと、後期を制して初めてプレーオフに駒を進めた日本ハムが川崎球場で対戦。日本ハム1勝で迎えた第2戦は13時1分にプレーボールとなったが、いきなり荒れ模様となる。雨で2日間スライドしての登板となったロッテ先発の仁科時成はストライクが入らず、3連続四球で満塁に。日本ハムは柏原純一の犠飛で先制し、続く岡持和彦が左安打で再び満塁、そして古屋英夫の犠飛で1点を追加した。

 だが、その裏にはロッテも日本ハム先発の岡部憲章を攻め、落合博満の適時打で1点を返すと、2回裏には庄司智久の適時打で同点に。弘田澄男が四球を選んで一死満塁となり、落合は倒れたが、リーも四球を選んで押し出しで逆転に成功する。この回が終わったところで、すでに試合時間は1時間半を超えようとしていた。

 ロッテは6回裏に落合の適時打で1点を追加。続く7回表には日本ハムも2番手の倉持明から高代延博がソロ本塁打を放って1点を返すも、3番手の三宅宗源が投じる剛速球に後続を断たれ、その裏には水上善雄に適時打を浴び、またも2点をリードされる。この時点で、約3時間半が経過しようとしていた。

10投手、17四死球で5時間17分


 逃げ切るかと思われたロッテだが、9回表、日本ハム打線が球威の落ちた三宅を攻める。先頭のソレイタの中安打に柏原が野選で無死一、二塁とすると、代わった三井雅晴から代打の村井英司が適時打。古屋の犠打で一死二、三塁として、井上弘昭の適時打で同点に。その裏、日本ハムは切り札の江夏豊を投入。2安打を浴びたが、巧みに乗り切って引き分けに持ち込んだ。

 熱戦でもあったが、乱戦でもあった。両チーム計10投手を投入し、全17四死球。打線に落合やリー、レオンの兄弟、有藤、そして張本勲らを並べたロッテが序盤から試合の主導権を握っていたが、この第2戦を引き分けた日本ハムはシーズン15連勝の間柴茂有で第3戦を勝って、プレーオフの行方を決定づける。

 最終的には3勝1敗1分けで日本ハムが優勝。ロッテは以降、栄冠から遠ざかっていくことになる。ちなみに、すでにセ・リーグの優勝を決めた巨人ナインが偵察に来ていたが、あまりの長さに、多くは途中で席を立ってしまったとか。


1981年10月10日
ロッテ−日本ハム プレーオフ第2戦(川崎)

日本ハム 200 000 102 5
ロッテ  120 001 100 5

[本塁打]
(日本ハム)高代1号

写真=BBM
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