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編集部コラム

プロ野球外国人選手1256人の軌跡

 

個性派フォームいろいろ


野村氏とスタンカの孫ジョシュさんの2ショット


 今週号の週刊ベースボールは外国人選手特集。DeNAのロペス、ソフトバンクデスパイネ、南海・スタンカのお孫さん(聞き手は野村克也氏)とともに、やや勢いが落ちてきたが、独特のフォームで本塁打を量産する楽天ブラッシュもインタビューしている。
 彼のフォームを見て、「懐かしいな」と思っているファンも多いと思う。

 そう、1995年、バレンタインがロッテ監督就任時(1期目)に入団したJ.フランコ(その後、98年にも在籍)にそっくりなのだ。フランコはメジャーでも首位打者を獲得した名選手で、彼はホームランバッターではなく、アベレージヒッタータイプだった。

 構えのグリップで言えば、T.ローズ(近鉄ほか)も高かった。バットの先端を斜め上に何度か動かし、大きく足を上げてフルスイング。2001年には当時の日本タイ記録55本塁打もマークしている。動きは大きかったが、全盛期は絶対に体が前に突っ込まなかった。

 ローズと同時期の選手で翌02年に55本を打ったA.カブレラ西武)は構えでグリップを高く上げた際、大きく背中を反らせるのが特徴。高校時代の中田翔(大阪桐蔭高─日本ハム)らがマネした。

 メジャーの個性派フォームと言えば、古くはピート・ローズ(レッズほか)でおなじみのクラウンチングフォームが有名だ。
腰をかがめ、ベース側に前傾するフォーム。89年首位打者&MVPのクロマティ巨人)もそうだったが、彼は年々、体が起きていった。クロマティの故障離脱時にブレークした台湾出身・呂明賜のフォローの大きな豪快なスイングも印象深い。
 ほか大洋のミヤーンはバットを短く寝かせて持つ“かわいい”フォームで79年に首位打者となっている。

デービス大暴れ


乱闘後、殴られた東尾への批判も相次いだ



 今ではすっかり様変わりしたが、昔は助っ人といえば、バイオレンスの香りがした。
 この印象(?)が出来上がったのは、1960年代のパ・リーグだ。今以上に日本人選手との体格差が大きく、存在自体に威圧感があったこともあるし、外国人選手側に日本を下に見ていたところもあっただろう。

 南海のスタンカ、阪神のバッキーらは打者の体を狙うビーンボールを得意球(?)と公言し、阪急のスペンサーは殺人スライディングで相手選手を何人も病院送りにした。

 70年代、80年代によくあったのは、死球を受けた外国人打者が投手に突進するシーンだ。長打力はあるが、振りが大きい分、内角を苦手とするタイプが多い外国人打者に対し、厳しい内角攻めは必須だった。外国人側にしたら、言葉もはっきり分からない異国での疑心暗鬼、さらに、結果が出なければ、解雇されるという危機感もあった。
 クロマティは体の近くに来ると必ず投手を威嚇し、「これではなめられる」と中日宮下昌己がぶつけ、大乱闘になったこともある(87年)。

 外国人バッターに嫌われたのが、西武の死球王・東尾修だ。対外国人選手だけではないのだが、抜群の制球力を誇りながら体の近くにドンドン投げ込み、腰を引かせて外角で仕留めるタイプ。当てても「よけなかったほうが悪い」くらいの顔をしていた。

 86年6月13日の蛮行は起こるべきして起こった事件かもしれない。東尾が近鉄・デービスの右ヒジに当てると、デービスはそのままマウンドにダッシュし、東尾にパンチ、キックを浴びせた。「正当防衛だ。俺には守らねばならぬ妻と子どもがいる」と言ったデービスだが、のち大麻所持で逮捕され、近鉄を解雇された。

外国人に対する勘違い


アニマルのパフォーマンスは派手だった



 バイオレンスばかりを強調するのは失礼だろう。陽気な男も多く、印象的なパフォーマンスも記憶にある。
 派手だったのは、阪急のアニマルだ。1986年、阪急に入団した抑え投手で在籍は2年だけだが、とにかく常にハイテンション。
ゲームセットの瞬間(もちろん、抑え成功のとき)、マウンドで相撲を参考にした、さまざまなポーズをし、飛び跳ね、雄たけびを上げ、その後、捕手の藤田浩雅の胸や腹を殴るのが定番だった。

 ほかにも運転役の女性を置き去りにしてリリーフカーを運転しマウンドに向かったり、パンツ一丁でベンチ裏からグラウンドをのぞきに来たりと、まさに自由自在な男だった。『チャンピオン・アニマル』という歌で歌手デビューも果たし、「ライバルはミック・ジャガー」と言っていたこともある。
 引退後はたけし軍団入りしたが、13年54歳で死去。

 レコードと言えば、阪神時代のオマリーも有名だ。お立ち台での「ハンシンファンはイチバンや!」でも人気があった明るい男で、『オマリーの六甲おろし』で歌手デビューもした。この歌は、いろいろな意味で今も語り草となっている。

 プレー以外のパフォーマンスで最初に話題になったのは、1980年広島デュプリーだろうか。
 戦前はイーグルスの捕手・ハリスや阪急のヘソ伝、山田伝ら“芸達者”な選手がいたが、当時のプロ野球は今以上に“魅せる”意識が高い選手が多かった時代だ。

 デュプリーは成績は今一つだったが、いわゆる、雨舞台が晴れ舞台の男だった。
 試合が雨で中断になるとバットを持って登場。カーン、打った、走った、滑り込んだ、のエア・ランニングホームランを日本でやった先駆け的選手だった。

 パフォーマンスと言えば、『踊るホームラン王』ことウインタース(日本ハム)はすごかった。女装して試合前のダンスチームのパフォーマンスに参加したり、写真がないと説明しづらいが、逆立ちの仮装をしたこともある。

 西武・デストラーデの空手のような派手なガッツポーズを覚えている方も思うが、そもそも日本の野球ファンは長く外国人選手は喜怒哀楽をはっきり出すと、ある意味、勘違いしていた面もある。
 メジャーの選手たちが審判のジャッジを素直に受け入れ、ホームランを打ってもガッツポーズもせず、黙々と走ると知ったのは、90年代後半、野茂英雄がメジャーにわたり、メジャーの試合映像が頻繁に見られるようになってからという人が多いのではないか。

 勘違いを増長させたのが、クロマティだった。大物メジャーとして知られた彼が投手や審判に頻繁に文句を言い、ホームランを打てばド派手にアクションで喜ぶ。
 それが地上波のテレビで繰り返されたのだから当たり前だ。

 ただ、そういう状況でさえ、彼のパフォーマンスは賛否があった。
 客席へのバンザイ・ポーズは受け入れられたが、打った後、投手に向かい、自分の頭を「ここが違うぜ」とばかり指さしたのは、みな眉をひそめた。
 大洋・遠藤一彦が抑え込んだ際に、やりかえしたこともあったが、のちクロマティは「アメリカではあんなことはしない」とも語っていた。
 今では外国人選手だけでなく、日本人選手のホームラン後のパフォーマンスは多いが、ほとんどがベンチ前だけになっている。

悲劇の大投手スタルヒン


週べの7月29日号



 最後になるが、この号の売りは、歴代外国人1256選手の写真名鑑という企画だが、実は前提が難しい。
 要は外国人とはどこまでを含むかだ。

 国籍だけでいえば、在日韓国人選手の問題もある。日系人を外国人と呼ぶのに抵抗がある人がいるかもしれない。
 あくまで外国人選手扱いの時期があった選手と理解していただきたい。
 また出身地は国籍とは別にしてあるが、「キューバ出身」には3通りある。1つは、純粋に今のキューバ、2つめは亡命者、そして3つめが革命前のキューバ出身者である。ちなみに3つめは元阪急ほかのバルボンだけだ。

 外国人枠という発想が生まれたのは、1951年途中、巨人に入団した日系アメリカ人・与那嶺要のプレーがあまりにもすごかったからと言われる。
 規制をしなければ、パワーバランスが崩れるという危機感だ。
 戦前から日系アメリカ人は、野球の本場アメリカからの、助っ人として多数来日していた。彼らは日本にルーツを持つが、米国籍のみで日本国籍はなかった。

 大きなターニングポイント、いや踏み絵となったのは戦争だ。
 41年、アメリカは在日米人の強制帰還令を出し、多くの日系人選手が日本を離れた。その中で、日本に残り、日本国籍を選択、つまりはアメリカ国籍を放棄したのが、阪神にいた若林忠志らだった。

 国籍ということでは、もっとも複雑なのがスタルヒンだろう。通算303勝、39年にはシーズン最多42勝を挙げた鉄腕だ(西鉄・稲尾和久とタイ)。
 スタルヒンはロシア革命で迫害された、いわゆる白系ロシア人で、両親とともに幼少期に無国籍となって日本に亡命した。
 両親はいつかはロシアに戻りたいと思い、帰化への動きはしなかったようだ。

 その後、メジャー選抜チームと対戦するために結成された大日本東京野球倶楽部(巨人の前身とも言えるチーム)に参加する際、スタルヒンは関係者に「僕は日本に帰化します」と明言したそうだが、何度申請しても認められなかったらしい。
 40年からは須田博と日本名を名乗らされ、終戦間近の時期は軽井沢に軟禁された。

 46年途中パシフィックで球界に復帰し、55年限りで引退した。戦争で大きく運命が狂った選手は多いが、もし、戦争がなければ史上初の400勝投手はスタルヒンだったはずだ。
 スタルヒンは57年1月12日、自動車事故で死亡。まだ、40歳だった。
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