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プロ野球1980年代の名勝負

“悲運の名将”最後の晴れ舞台(1980年11月2日、広島×近鉄)/プロ野球1980年代の名勝負

 

プロ野球のテレビ中継が黄金期を迎えた1980年代。ブラウン管に映し出されていたのは、もちろんプロ野球の試合だった。お茶の間で、あるいは球場で、手に汗にぎって見守った名勝負の数々を再現する。

“江夏の21球”の雪辱を期す近鉄


自身、指揮官として8度目の日本シリーズ挑戦も、またしても頂点に届かなかった西本監督


 2年連続で同じ顔合わせとなった1980年の日本シリーズ。前年の日本一で黄金時代に突入した広島と、その前年の日本シリーズで惜しくも日本一を逃し、雪辱を期す近鉄との激突だった。

 この日本シリーズは、前年の対決と比べて、振り返られることは少ない。なにせ、前年は弾7戦(大阪)で球史に残る名勝負が繰り広げられており、それに比べれば静かに終わった感が否めないのも、やむを得ないことだろう。その79年の第7戦は、広島の江夏豊が9回裏、からくも近鉄の猛追をかわした、いわゆる“江夏の21球”。あまりにも惜しい敗れ方に、近鉄の日本一に懸ける思いは並々ならぬものがあったはずだ。

 ペナントレースでは、前期を制したロッテとプレーオフで対戦し、3連勝と圧倒。優勝を決めた10月18日の第3戦(大阪)は平野光泰の逆転3ランから打線が爆発し、13得点の完勝だったが、それでも祝勝会ではビールかけがなかった。

 迎えた日本シリーズは広島市民球場で開幕。勢いに乗る近鉄が2連勝で舞台を大阪球場へ移すが、そこから広島が2連勝。第5戦は近鉄が猛打で王手をかけたが、広島市民球場へ戻った第6戦では水谷実雄が1回裏に満塁本塁打を放つなど、広島が快勝する。決着は2年連続で第7戦に持ち込まれた。だが、2年連続の劇的なドラマはなく、2年連続で広島の日本一が決まる。これが、8度目の日本シリーズ進出にして、ついに日本一がならなかった男の、最後の晴れ舞台でもあった。

 その男の名は西本幸雄。60年に大毎を率いて初の日本シリーズ進出も、大洋に4連敗を喫し、永田雅一オーナーとの衝突もあり、1年でクビに。その後、阪急で黄金時代を築き、67年からリーグ3連覇、71年からは2連覇も、V9巨人に届かず。パ・リーグの“お荷物”とさえ言われていた近鉄の監督に就任したのが74年だった。近鉄が初めて美酒を味わったのが75年の後期。だが、プレーオフでは自らが育てた阪急に優勝を阻まれた。79年が初のリーグ優勝、そして“江夏の21球”だ。

石渡の二塁打で逆転に成功するが……


 迎えた第7戦。広島の先発は、のちに“日本シリーズ男”と呼ばれる山根和夫。近鉄は井本隆で、このシリーズ3度目の対決となる。それまで、井本の2敗。その井本に西本監督は賭けた。だが、4回まで3人ずつで終わらせた山根とは対照的に、井本は苦しい投球を続ける。3回裏にライトルの適時二塁打で1点、5回裏には味方の失策も絡み、山本浩二に適時打を許して、さらに1点を奪われる。

 続く6回表、先頭の井本に代打が送られると、近鉄打線が目を覚ました。平野、永尾泰憲小川亨と3連打で同点。マニエル敬遠の後、栗橋茂は中飛に倒れるも、“江夏の21球”で最後の打者となった石渡茂が適時二塁打を放って、逆転に成功した。

 だが、その裏からリリーフに立ったエースの鈴木啓示が乱調。この回から2点ずつを奪われ、完敗に終わる。胴上げが始まると、西本監督は近鉄ナインをロッカーへと引き揚げさせたという。西本監督は翌81年を最後に勇退。“悲運の名将”とも言われたが、こう西本は語っている。

「悲運なものか。こんな幸せな男はおらんよ」


1980年11月2日
広島−近鉄 日本シリーズ第7戦(広島市民)

近鉄 000 003 000 3
広島 001 012 22X 8

[勝]山根(2勝0敗0S)
[敗]鈴木啓(2勝1敗0S)
[S]江夏(1勝1敗1S)
[本塁打]
(広島)衣笠1号

写真=BBM
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