プロ野球のテレビ中継が黄金期を迎えた1980年代。ブラウン管に映し出されていたのは、もちろんプロ野球の試合だった。お茶の間で、あるいは球場で、手に汗にぎって見守った名勝負の数々を再現する。 自己最多の36号本塁打を放った試合で……
試合後、左手を包帯でグルグル巻きにして帰途に就く原
「最後、いい場面で(打席が)回ってきてね。僕自身の状態でいえば、6、7分の力でしか打てない。それ以上の力で打ったら、おかしくなるというのは自分でも分かってた。けど、津田(
津田恒実)が全力投球でしょ。それに対して、自分の力をセーブするなんてダメだと思ったんですよ。それで『よし、この打席、行こう』と思って振った。いまだに、あのスイングは自分の一番いいスイングだと思っています」
と、
巨人の
原辰徳は振り返る。ドラフト1位で1981年に入団。80年代の“四番・サード”として活躍した“若大将”だ。3年目の83年には103打点で打点王。だが、
王貞治、
長嶋茂雄らと比較され、批判に苦しめられることも少なくなかった。その多くが、「勝負弱い」「40本塁打は欲しい」といったもの。そんな原が、最も40本塁打に近づいたのが、自己最多の36本塁打を放った86年だろう。
その36号が飛び出した9月24日の
広島戦(後楽園)。この日を最後に、原は残りシーズンを棒に振ることになる。それだけではない。現役を引退するまで、自分のスイングができなくなってしまったという。ゲーム差なしの2位で首位の広島を追う試合。原は守備中に左手首を痛めていたが、首位に迫っている状況で、痛み止めを打ちながら出場していた。3点ビハインドの9回裏二死一塁。打ち取られたら敗れる場面で、原は打席に入った。原が打てば、首位の座を奪う可能性は残される。
そんな原の前に立ちふさがったのが津田だった。85年から2年連続で三冠王に輝いた
阪神のバースをして「ツダはクレージーだ」と言わしめた“炎のストッパー”。この86年も前半戦は不振に苦しむ投手陣を、そして優勝へと突き進んでいく広島を支えてきていた。
この試合、巨人は先発の
槙原寛己は制球が定まらず、1回表から2四球もあって一死満塁のピンチを招き、
長嶋清幸の犠飛で1点を先制される。2回表からは調子を取り戻すも、なかなか打線が得点を奪えない。そして5回表、槙原は先頭打者で投手の
大野豊に二塁打を浴びて降板。広島は一番の
高橋慶彦が犠打で走者を進め、三番の
小早川毅彦が適時二塁打を放って、さらに1点を追加した。だが、7回裏一死、原が大野から36号ソロ。ようやく巨人が1点を返した。広島は続く
鴻野淳基から大野が三振を奪ったところで、津田をマウンドへ送る。
「当たったときにバキッと音がした」
この日、津田も絶好調だった。初めて走者を許したのは9回裏二死からで、
中畑清の左安打。ここで打席に迎えたのが原だった。両雄、この試合の初対決。そして2ボール2ストライク、津田が投じた全身全霊の剛速球に対して、原が渾身のフルスイングで応える。
「ファウルだったけど、当たったときにバキッと音がした。手のひらの有鉤骨の骨折でした。折れたことに悔いはなかったですよ。そう思わせるピッチャーでしたしね」
なお、津田が広島の勝利をもたらし、宿舎に帰ったのと同じころ、津田の母で、闘病中だった立子さんが死去している。津田が悲報に接したのは翌25日の朝だったというが、この24日の津田は、どこか特別だったのかもしれない。
1986年9月24日
巨人−広島25回戦(後楽園)
広島 100 010 002 4
巨人 000 000 100 1
[勝]大野(4勝5敗0S)
[敗]槙原(8勝5敗0S)
[S]津田(4勝6敗19S)
[本塁打]
(巨人)原36号
写真=BBM