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プロ野球1980年代の名勝負

中日が優勝を決めたのは田尾が首位打者を逃したから?(1982年10月18日、大洋×中日)/プロ野球1980年代の名勝負

 

プロ野球のテレビ中継が黄金期を迎えた1980年代。ブラウン管に映し出されていたのは、もちろんプロ野球の試合だった。お茶の間で、あるいは球場で、手に汗にぎって見守った名勝負の数々を再現する。

優勝は勝率で、首位打者は打率で決まる


明らかなボール球に対してバットを出した田尾


 Aというチームが130試合を129勝1敗0分で終えたとする。貯金は脅威の128だ。一方、Bというチームは1勝0敗129分。貯金は、わずか1。一部の例外もあったが、プロ野球は勝率で優勝が決まるのがルールだ。では、優勝チームはAか、Bか。答えはBだ。Aの勝率.992に対し、Bは勝率1.000。たった1勝しかしていなくても、1敗もしていないBが、129勝もしているAをしのいで優勝、ということになる。

 冒頭から極端な例を挙げたが、勝率が5割を超え、貯金が同じであれば、引き分けが多いチームが有利となる。「試合開始から3時間を過ぎて新たな延長戦に入らない」1982年のセ・リーグで、これを大いに利用したのが中日近藤貞雄監督だった。勝てそうにない試合でも、巧みな継投策で引き分けに持ち込んで、積み上げた引き分け数は19。勝ち星のトップは66勝50敗14分、勝率.569の巨人だったが、中日は64勝47敗19分で、勝率.577。勝ち星では3位の阪神さえも下回りながら、リーグ最後の390試合目で薄氷の優勝を決めた。

 ペナントレースは最後まで目が離せず、セ・リーグはシーズン観客動員数の最多を更新。そして10月18日、横浜スタジアムで迎えた、その390試合目だった。

 その9日前の、10月9日。同じ横浜スタジアムで巨人が大洋に敗れ、最終戦を黒星で終えたことが伏線だった。その時点で8試合を残していた中日は17日の大洋戦まで4勝3敗。優勝の可能性を残しながら、というよりも、2位に転落する危機と戦いながら、首位にぶら下がり続けていた。

 一方、この最終戦に首位打者のタイトルが懸かっていたのがリードオフマンの田尾安志だった。ライバルは大洋の長崎啓二。17日の試合で田尾は4安打を放ち、497打数174安打、打率.350。対する長崎は396打数139安打、打率.351で、あと1打数1安打で田尾が逆転する状況で最終戦を迎えた。

 だが、大洋が優勝どころかAクラスにも絡まない不動の5位で、優先順位が高いのは、この試合に勝つことよりも長崎のタイトルだったことも災いしたのかもしれない。優勝を決める名勝負となるべき試合は、語り継がれる“迷勝負”となってしまう。

野球は数字のスポーツだが……


 大洋は長崎を欠場させ、田尾を徹底的に歩かせる作戦に出た。一番の田尾が必ず塁に出るのだから、試合は中日にとって有利となる。“首位打者”長崎を欠く大洋の打線は沈黙。試合は一方的な展開となり、開幕戦に続いて2度目の先発で「キセル男と言われました」と笑う小松辰雄の完封で中日が優勝。5打席連続で敬遠された田尾は、その5打席目で3ボール0ストライクからの明らかなボールを空振りして見せて、観客が騒然となる場面もあった。

 野球は数字のスポーツ、といわれる。積み重ねられた数字が多くを左右することは確かだ。ただ、人生にはカネが必要であり、だからといって「人生はカネ」と言い切ってしまうことに虚しさがあふれるように、野球を数字だけで語るのには寂しさが漂う。一転、悪役となって苦しむ長崎を救ったのは、当時は巨人の助監督で、表彰式で最多出塁の田尾とともに長崎を呼んで「127試合までで勝負できなかった田尾くんの負け」と語りかけた王貞治の一言だった。


1982年10月18日
大洋−中日26回戦(横浜)

中日 014 000 300 8
大洋 000 000 000 0

[勝]小松(4勝4敗9S)
[敗]金沢(5勝4敗0S)
[本塁打]
(中日)谷沢21号

写真=BBM
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