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谷繁元信コラム

「非常に雰囲気があった」広島市民球場の思い出/谷繁元信コラム

 

『ベースボールマガジン』で連載している谷繁元信氏のコラム「仮面の告白」。ネット裏からの視点を通して、プロ野球の魅力を広く深く伝えている同氏だが、今回は「広島市民球場」。プロでは横浜、名古屋で野球人生を送った谷繁氏だが、そのルーツは広島にある。広島市民球場の思い出とは――。

「故郷に錦を飾る」感覚


広島が本拠地としていた広島市民球場(1998年撮影)


 そういうイメージがないかもしれませんが、僕は広島の出身なんです(比婆郡東城町=現・庄原市)。父親に連れられて初めて市民球場に見に行ったのは、ジャイアンツ戦でした。小学校低学年だったと思います。ベンチのすぐ上の席だったので、グラウンドとの距離がすごく近く感じました。そこで目の前のプロ野球選手の体の大きさに圧倒された。それが僕にとってのプロ野球原体験です。いま思えば広島市民球場は狭かったのですが、子ども心に大きい球場だなという印象を受けました。

 高校時代には選手としてプレーしています。僕は島根県の江の川高(現・石見智翠館高)に進学後、秋の島根県大会に優勝して中国地方の5県がセンバツ出場権を懸けて戦う中国大会に出場。そのとき初めて広島市民球場で試合をしたんですが、これがプロ野球の球場かと感動を覚えました。県大会であんなにスタンドが大きい球場など見たことがなかったですからね。

 その後、1988年にプロ入りして以降、市民球場に対する感じ方も変わってきました。横浜大洋の本拠地である横浜スタジアムでプレー、甲子園、東京ドーム、神宮でも試合をする中で、何か小さい球場だなと。比べる対象がすべてプロの球場となったので、当然かもしれません。

 ただ、レギュラーを取って広島市民球場でプレーするときには、僕の中では故郷に帰ってきた感覚がありました。地元の人たちもいろんな形で見てくれていたでしょう。実家には帰らなかったですが、3連戦のうち1試合は父親も見に来てくれていた。「故郷に錦を飾る」ではありませんが、どこかでここで活躍したいという思いも強かったです。

打席の土が掘れるためワンバウンドが変化


現役時代、打者としては広島市民球場を得意としていた


 地元ということを抜きにしても、広島市民球場は好きな球場でした。ヨソの球場と比べて小さいぶん、変な力みがなく打席に立てた。大きい球場ではどこかに力が入っていて振り過ぎたりするんですが、いい具合の力加減で打てたんです。ですから僕の広島市民球場での成績は、結構いい。ホームランも通算229本のうち40本打っています。

 投手陣の成績は、基本的に打ち合いになりますから、あまりよくありません。ただ、アウトコースを多めに配球しても逆方向に簡単に入る球場だったので、どちらかというと攻め重視の配球にせざるを得なかった。インコースを詰まらせようという意図に基づいた配球が多かったと思います。

 マウンドはものすごく掘れていました。昔の球場というのは、どこも同じようなものでしたが、その中でも市民球場は特別でした。

 バッターボックスも同じで、イニングが進むにつれて軸足の土が掘れくるんです。その影響は、バッターというよりキャッチャーとしてのほうが大きい。つまり、その掘れた個所に変化球がワンバウンドしたらバウンドが変わってしまう。それくらい深い穴が空いていました。キャッチャーとしては嫌でしたね。

 キャッチャーズボックスも、ずっと座ってスパイクで土を噛んでいるわけですから、定位置で構えたときの両足の裏が掘れる。そのため、サインを出し終わってコーナーに構えるときには足が引っ掛かったり、つまずいたりすることもありました。

 一方、バッターの立場から考えると、投球プレートとホームベースとの間の距離18.44メートルは変わらないんですが、市民球場のマウンドというのは近く感じました。球場が狭い分、センターも近くて圧迫感のようなものがある。バッターにとっては“圧”を感じる球場で、どうしても差し込まれがちでした。

 そういう意味ではピッチャーにとっては有利なのですが、その分、球場が狭いですから、先ほど書いたとおり、総体的に考えるとバッター有利の球場であることに変わりありません。

ネクストの後ろでファンの声


 ほかに印象に残っているのは、レフト後方から入ってくる西日です。これがまぶしかった。スタンドの上に日よけがあったんですが、その隙間から太陽が差し込んできて、あれはあれで、映画『ALWAYS三丁目の夕日』ではありませんが(笑)、いい雰囲気を醸し出していました。

 初観戦したときに感じたように、スタンドとの距離感もすごく近かった。ネクストバッターズサークルでは、後頭部のすぐ後ろにファンがいる感覚です。ですから最前列のファンの会話が逐一耳に入ってくる。

 当時の市民球場は7〜8割が広島ファンですから、三塁側ベンチの上の観客も広島ファン。ヤジも当然ありました。一度、2打席目にネクストで準備していたんですが、それまで僕は広島に3盗塁ぐらい許していたんです。ネクストにいた僕の後ろにカップルがいて、男のほうから「谷繁、お前、1個くらい刺せ」と、話しかけられるようにヤジられました(笑)。そこは知らない顔でやり過ごしていた。すると、隣の女の子が「そうよ、そうよ」と便乗(苦笑)。さすがにカチンときて振り向きました。ヤジというより、話しかけられている感覚……それぐらいグラウンドとスタンドは近かったですね。

 客層も当時といまでは違います。現在はマツダスタジアムになって、昔のようなヤジはなくなったに等しい。ファン層も変わってきました。球場に来ている子どもの数も、昔よりいまのほうが多いと思います。その子どもたちに教育上、変なヤジを聞かせたくないという風潮もあるのではないでしょうか。それはそれでいいことだと思います。

 一方で、野球選手というのは、ほかのプロスポーツもそうだと思うんですが、ヤジられてナンボですからね。ファンにお金をもらってプレーしているんですから、それだけの責任がある。ヤジられなければ一流ではないということですよ。

 ロッカーは、いま考えると狭くて選手はすし詰め状態でした。でも、なんか雰囲気がある球場でしたね。当時の球場名物として「カープうどん」が売られていて、僕らもビジターチームの練習終了後に裏方さんにお願いして、買いに行ってもらっていました。これがまた、関西風で色はそんなに濃くないんですが、ダシがしっかりきいていて、いい味を出してるんです。いまもマツダスタジアムでも売られていると思います。

 いずれにしても広島市民球場というのは、雰囲気のある球場でした。

写真=BBM

●谷繁元信(たにしげ・もとのぶ)
1970年生まれ。江の川高校(現・石見智翠館)にて甲子園に出場し、卒業後、ドラフト1位で横浜大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)に入団。98年にはベストナイン、ゴールデングラブ賞、最優秀バッテリー賞を獲得しチームの日本一に大きく貢献。2002年に中日ドラゴンズに移籍。2006年WBC日本代表に選出され、2013年2000本安打を達成。2014年シーズンから選手兼監督になり、2016年現役引退を表明。通算3021試合出場、27シーズン連続安打、同本塁打を達成(いずれもNPB歴代最高)。2016年に中日ドラゴンズを退任後は、各種メディアで評論家、解説者として活動を行う。著書に『谷繁流キャッチャー思考』(日本文芸社)。
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