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夏の甲子園名勝負

太田と井上の投げ合いで史上初の決勝引き分け再試合へ/夏の甲子園名勝負

 

いよいよ第101回大会を迎える夏の高校野球。1915年、つまり大正4年に始まり、昭和、平成という時代を経て、この夏が令和最初の大会でもある。昨夏、平成最後の大会となった100回までの長い歴史の中で繰り広げられた名勝負の数々を、あらためて振り返ってみる。

試合は膠着状態のまま延長へ


太田幸司(三沢)


 記憶に新しい2006年の夏、早実と駒大苫小牧の決勝引き分け再試合。早実は斎藤佑樹(現・日本ハム)、駒大苫小牧は田中将大(現・ヤンキース)の両エースによる投手戦は1対1のまま、延長15回に及んでも決着がつかなかった。決勝の引き分け再試合は、これが2度目。これが史上初となると、今から50年前、1969年にさかのぼる。当時の規定は延長18回まで。2006年の夏は斎藤が15イニングを完投したが、1969年の夏は三沢の太田幸司(のち近鉄ほか)、松山商の井上明、両チームのエースが18イニングを“完封”。ともに無失点のまま、再試合へともつれ込んだ。

 東北勢としては初の悲願を胸に戦う三沢は夏の大会2年連続2度目、春夏通算では3季連続3度目の出場。一方の松山商は1919年、第5回大会から出場を重ねている名門で、この大会も準々決勝で静岡商に1点を許したのみで決勝までコマを進めてきた。

 対照的に、三沢は接戦に次ぐ接戦。大分商との1回戦から2対2のまま延長戦に突入して、10回裏に1点を奪ってサヨナラ勝ち。続く明星との2回戦、平安との準々決勝ともに2対1、玉島商との準決勝は3対2で、すべて1点差で勝ち上がってきていた。この4試合すべて、37イニングを1人で投げ抜いた太田は力で押す剛腕タイプで、一方の井上は卓越した制球力と精神力を誇る精密機械タイプ。何もかもが対照的な、世紀の一戦だった。

 両エースともに、たびたび走者は背負ったものの、ピンチらしいピンチもないまま9回を迎える。9回表、松山商は先頭打者の中安打から2者連続犠打で執念を見せたが、後が続かず。三沢は三者凡退に終わり、試合は膠着状態のまま延長に突入していった。

三沢は2度の一死満塁を生かせず


 試合が動くかに見えたのは延長15回裏だった。三沢は敵失もあって一死二、三塁のチャンス。松山商は満塁策に懸けた。ここで九番の立花五雄が遊ゴロで、三走の菊池弘義が本塁憤死。なおも二死満塁のチャンスだったが、一番の八重沢憲一は中飛に終わる。

 16回裏も満塁策で一死満塁。六番の高田邦彦はスリーバントスクイズに出たが、松山商はこれを外し、飛び出した三走の小比類巻英秋も刺して併殺に。常に冷静な井上の前に1点が奪えない三沢だったが、一方の松山商は太田の前にチャンスすら作れず。太田は262球、井上は232球。4時間16分に及ぶ死闘は、ついに決着がつかなかった。

 翌日の再試合は開始早々、2ラン本塁打が飛び出した松山商が試合の主導権を握り、4対2で全国制覇を決めている。


1969年(昭和44年)
第51回大会
決勝

松山商 000 000 000 000 000 000 0
三沢  000 000 000 000 000 000 0
(延長18回引き分け再試合)

写真=BBM
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