プロ野球のテレビ中継が黄金期を迎えた1980年代。ブラウン管に映し出されていたのは、もちろんプロ野球の試合だった。お茶の間で、あるいは球場で、手に汗にぎって見守った名勝負の数々を再現する。 2回裏にクロマティの守備を突いて西武が先制
秋山の中前打で一塁から一気にホームにかえった辻
1987年の日本シリーズは、プロ野球の歴史における転換点のようでもあった。
巨人と
西武、“球界の盟主”を懸けた対決と言われた両雄による2度目の激突。第3戦から第5戦は、巨人の本拠地で、“プロ野球の聖地”後楽園球場のラストゲームでもあった。
初対決の83年で敗れた巨人にとっては、揺らぎかけた“盟主”の座を再び不動のものにできるか、というだけでなく、長く親しんできた後楽園球場の有終を日本一で飾れるかが懸かった対決。まだ公にはなっていなかったが、すでにエースの
江川卓は引退を決意していた。
一方の西武も、83年からは戦力も入れ替わり、若手が中心となってから初めて迎える対決。これを制することで、新たな“盟主”の座は不動のものになる。それだけではない。プロ2年目の
清原和博と、対する巨人の
桑田真澄、PL学園高で“KKコンビ”と言われた2人の“KK対決”にも注目が集まっていた。初対決は87年の球宴で実現していたが、“お祭り”の要素もある球宴と球界の頂点を争う日本シリーズの違いは歴然。様々な要素が詰め込まれ、凝縮された日本シリーズだった。
第1戦(西武)は巨人の打線が西武のエースでベテランの
東尾修を攻めて圧勝。第2戦(西武)は若き左腕の
工藤公康が二塁も踏ませず3安打完封で西武が完勝する。後楽園での第3戦は西武の
郭泰源が江川との投手戦を制して西武が2勝目を挙げれば、第4戦は
槙原寛己の3安打11奪三振による完封で巨人が振り出しに戻した。
第5戦は桑田の立ち上がりを攻めた西武が東尾、工藤のリレーで王手。舞台を西武球場に戻した第6戦は接戦でこそあったが、あまりにも象徴的なプレーで勝敗、そして“盟主の座”が決まる。
2回裏、先頭の清原が左安打で出塁して犠打で二進、ブコビッチの中飛を好捕した
クロマティだったが、なぜか送球は中継に入った遊撃の
鴻野淳基ではなく、二塁の
篠塚利夫へ。二塁からタッチアップしていた清原は三塁で止まりかけたが、三塁コーチャーズボックスの
伊原春樹コーチは猛然と腕を回した。清原は慌てて本塁へ突入し、西武が先制する。
3回裏には先頭で九番の
清家政和がソロ本塁打。清家は公式戦では本塁打ゼロで、日本シリーズでの“初本塁打”は投手や新人を除けば初の快挙だった。先発の工藤を打ち崩せずにいた巨人は、7回表に先頭の
原辰徳がソロ本塁打を放って1点を返すも、後が続かず。そして8回裏二死から、西武は5回からリリーフしていた
鹿取義隆を攻める。
「5点に匹敵する1点」
二番の
辻発彦が左安打で出塁すると、続く
秋山幸二が中安打を放つ。ここで再びクロマティが、途中から遊撃に入っていた
川相昌弘へ、中継しにくい場所へ緩慢な送球。伊原コーチの腕も再び猛然と回る。辻は減速せず本塁を陥れ、西武の
森祇晶監督をして「5点に匹敵する」ダメ押しの1点で、巨人にトドメを刺した。
続く9回表は工藤が巨人を三者凡退に抑える。このとき一塁を守っていた清原の涙もさることながら、胴上げでは工藤が輪に加わらず、バックスクリーンのカメラに向かってジャンプ。以降、これを真似る選手が続出したことを考えると、このフィナーレも象徴的なシーンだった。
1987年11月1日
西武−巨人 日本シリーズ第6戦(西武)
巨人 000 000 100 1
西武 011 000 01X 3
[勝]工藤(2勝0敗1S)
[敗]水野(0勝1敗0S)
[本塁打]
(巨人)原2号
(西武)清家1号
写真=BBM