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プロ野球1980年代の名勝負

巨人が3連敗4連勝で日本一に(1989年10月29日、近鉄×巨人)/プロ野球1980年代の名勝負

 

プロ野球のテレビ中継が黄金期を迎えた1980年代。ブラウン管に映し出されていたのは、もちろんプロ野球の試合だった。お茶の間で、あるいは球場で、手に汗にぎって見守った名勝負の数々を再現する。

駒田の“バカヤロー弾”に原の完全復活2ラン


1989年の日本シリーズで近鉄を下した巨人。引退する中畑が胴上げされた


 1989年の日本シリーズについては、第5戦(東京ドーム)を紹介した際にも触れた。12球団で唯一、日本一がなかった近鉄の悲願が懸かったシリーズは、近鉄の3連勝でスタートしたものの、第4戦(東京ドーム)から第6戦(藤井寺)を制したのは巨人。そして迎えた第7戦(藤井寺)、近鉄の先発マウンドに立ったのは、あの加藤哲郎だった。

 第3戦(東京ドーム)の試合後、加藤哲の発言が「巨人は(パ・リーグ最下位の)ロッテより弱い」と報じられたことで、シリーズの風向きが変わっていた。実際には、ビッグマウスが“トレードマーク”でもあった加藤哲が、「シーズン中より楽ですよ」といった趣旨の、いつものような強気のコメントをしたに過ぎない。ただ、その言葉が脚色され、そこから巨人が3連勝したことで、加藤哲の発言が巨人の意地を呼び起こした、というように見えたことは確かだ。

 一方、巨人の先発は第4戦を完封して追撃のキーマンとなった香田勲男。巨人が「あの一言で燃えたことで勝ち始めた」という単純な話だけではないだろうが、この日本シリーズは、そうした明快なドラマへと落ち着こうとしていたかのようだった。

 先制したのは巨人。2回表一死から、五番の駒田徳広が右翼席上段まで運ぶソロを放つ。駒田は打った瞬間にバンザイ。加藤哲に「バカヤロー!」と言いながらダイヤモンドを回った。4回表にも先頭で四番のクロマティが二塁打、続く駒田が四球で、加藤哲は一死を奪ったところで降板。指名打者で左の吉村禎章を打席に迎える場面で、左腕の小野和義がマウンドに上がる。

 だが、二死から八番の中尾孝義が適時打、九番の川相昌弘が適時二塁打。この回、巨人は3点を加えた。その裏、近鉄も反撃を開始。先頭で一番の真喜志康永がソロ、5回裏には一死から六番の村上隆行もソロ。だが、続く6回表、先頭の駒田が左安打で出塁すると、第5戦のグランドスラムで息を吹き返した原辰徳が2ランを放って、近鉄を突き放した。

 続く吉村の打席で、代打に送られたのが中畑清。すでに引退を決めている人気者の登場に、遺恨試合ともなりかねなかったゲームの雰囲気は一変する。

中畑も自ら花道を飾る2者連続弾


 巨人ファンだけでなく、近鉄ファンからも惜別の声援を受けて「頭が空っぽで、とにかく真っ白だった」という中畑は、2者連続となるソロ。2回表の駒田とは対照的となったが、飛び跳ねながらダイヤモンドを回る。

 その裏、近鉄も大石第二朗のソロで香田をノックアウトするも、続く7回表には二死からクロマティもソロを放って、ふたたび突き放された。そして9回裏、先頭の真喜志が右安打、二死から四番のリベラ、五番の鈴木貴久が連打で2点を返すも、届かず。巨人の8年ぶり日本一が決まった。

 前回と同様、藤田元司監督は就任1年目の日本一。シーズン7勝だった香田は日本シリーズでは2勝を挙げて勝ち頭となり、7試合シリーズでは頂点に立つ打率.522の駒田がMVPに。80年代に盟主の座を脅かされ続けた巨人が、その80年代のフィナーレを歓喜で締めくくった。


1989年10月29日
近鉄−巨人 日本シリーズ第7戦(藤井寺)

巨人 010 303 100 8
近鉄 000 111 002 5

[勝]香田(2勝0敗0S)
[敗]加藤哲(1勝1敗0S)
[S]宮本(0勝1敗1S)
[本塁打]
(巨人)駒田1号、原2号、中畑1号、クロマティ1号
西武)真喜志1号、村上1号、大石2号

写真=BBM
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