昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 白仁天の風呂事件
今回は『1968年5月27日号』。定価は60円。
阪神・藤本定義監督は、かなり偏屈で、しかもすぐ怒る人だったらしい。
試合後、知らない記者が質問しても満足に答えず、東京の記者をシャットアウトし、関西の阪神担当記者だけで囲み取材をしようとしたこともある。
要は、「知らん人間は、なにを書きよるか分からん。白を黒と書かれたらたまらんからな。知っている記者にだけしゃべるのが一番いい」という理屈だ。
その毒舌は他球団の監督にもおよび、かつては大洋監督時代の
三原脩を「教え子」と言って怒らせたこともある(実際、巨人で監督、選手だった時期はあるが)。
三原監督は言う。
「私は、あのじいさんから何も教わっていませんよ。一度私の野球を“大正時代に流行した”と言っていましたが、一体に何を考えているんですかね。野球のルールは昔も今も同じなんです」
解説者にも「あいつらロクに練習も見ず、勝手なことばかり書きよる」と敵視。コーチに対しても試合中、気の毒になるくらい怒りまくった。
ただ、選手対しては、ほとんど怒ることはなく、むしろ大甘だったという。
特にかわいがっていたのが、5月9日時点で5勝を挙げていた2年目の左腕・
江夏豊。その快速球で「セのナンバー1投手」と評判だった。
この年、キャンプでは投げ過ぎでヒジ痛になったが、それをコーチも言わず、時にはヒジに痛み止めで打ってもらったハリをつけたまま投球練習をしたという。
あとでばれて首脳陣から怒られたが、同時に「なんと根性のある男なんだ」と林コーチも感心していた。
とにかく強気。4月20日、後楽園で巨人相手に完封勝ちをした試合では、走者を置いて
王貞治を迎え、4打席を凡退、うち3三振。試合後、「敬遠は考えなかったのか」と聞かれ、
「どんな場面で王さんを迎えても絶対に敬遠などする気持ちはありません。第一、お金を払って見に来てくれているお客さんに悪いですよ。真っ向勝負を見に来てくれているんですから」
中日戦で一度だけ敬遠があったが、このときも最初は「拒否」。試合後には「ベンチの指示だから仕方がない。恥ずかしいです」と悔しがった。
巨人・堀内恒夫をライバルという声もあったが、本人は対抗心はなかったようだ。むしろ、
「僕は球界を代表するONと対決できるチャンスを与えられている。投手としてこれ以上幸福なことはないですよ。その点、堀内さんはONと対戦しようにもできませんからね」
と同情(?)していた。
怒りん坊の藤本監督も江夏の話になると目を細める。
「ワシは監督をやりはじめて30年になる。その間、もっとも神経を使ったのが昨年の江夏だった。なんとか一本立ちさせようと、どれほど気を使ったことか。おかげでワシのリュウマチも悪くなったわい。ところが今年はどうだ。気を遣うどころか安心しきってマウンドを任しておくことができる」
ふたたび三原近鉄の新人・
永淵洋三の記事があった。左腕のリリーフ投手として防御率0.90、外野手、代打でも活躍し、打撃成績は16打数5安打、うち代打成績は7打数3安打だ。
この人は本も出ているので知っている方も多いと思うが、なかなかユニークな人物だ。
東芝では厚生課に勤務し、午前中が仕事、午後が野球。九州男児の永淵は日々の疲れを酒で癒した。しかし高卒の入社7年目で手取り2万5000円の給料とあって、飲み屋のつけがたまる一方。「サラリーマンとしては、ちょっとどうしようもできないほど借金たまってしまいました」
と言う。さらに、
「借金がなければ、プロへ入らなかったかもしれないですね」
少し長くなるが、東映・
大下弘監督の話も少し触れておく。
5月1日の東京戦。9回裏一死、3対2と東映がリードしていたところで、東京の
アルトマンのセンターフライを
萩原千秋がポロリで一死二塁となった。
ここで大下監督をエラーした萩原を
白仁天に代えようとタイムをかけたが、その白がどこにもいない。探すと、もう自分の出番はないと思ったようで、風呂に入っていた。
ここで投手も完投目前だった
森安敏明を交代させたが、森安はロッカーでボロボロ泣きながら大暴れ。記者たちにも「投げたかった。なんで代えたんだ」と訴えた。
首脳陣批判でもあり、記者たちは大下監督にも質問したが、
「なんとか取り繕ってくれ。俺はよう言わんから」
と記事にしないよう頼んだという。
さらに白の処分を聞かれ、
「うちはノーサイン、ノー罰金、ノー門限だから何もしないよ」
お先真っ暗か。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM