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平成助っ人賛歌

130メートル弾連発! 脅威の飛距離を誇ったブラッグスのパワーの源とは?/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

Jリーグ元年にやってきた正真正銘の大リーガー


豪快なパワーある打撃で横浜をけん引したブラッグス


「ジーコの向こうを張ってハットトリックか。すごいね」

 1993年(平成5年)5月18日、ロッテ戦で1試合3本塁打を放ったオリックス藤井康雄に対して、土井正三監督はそんな言葉を残している。3日前に華々しくサッカーのJリーグが開幕。THE WAVESの『ウィー・アー・ザ・チャンプ』が朝の子ども向け番組『ひらけ!ポンキッキ』で鳴り響き、マサオ少年がカレーを食べるとラモス瑠偉になっちゃうなんだかよく分からない永谷園の『Jリーグカレー』CMも話題に。

 歴史的な開幕戦のヴェルディ川崎vs.横浜マリノスはテレビ視聴率32.4パーセントを記録するが、同日のオリックス戦でサヨナラ打を放った日本ハム白井一幸のコメントは「Jリーグに負けない、良い試合ができたと思います」である。この年からFA制度や逆指名ドラフトが始まる球界も時代の変わり目だったのは間違いない。昭和のプロ野球を盛り上げた落合博満中日)や原辰徳巨人)もベテランとなり、清原和博西武)や野茂英雄(近鉄)を擁するパ・リーグの球場もまだ空席が目立った。ゴールデンルーキー松井秀喜(巨人)は開幕二軍スタートで、19歳の鈴木一朗(オリックス)が“イチロー”と名を変えるのは翌94年のことである。

 いわば過渡期の球界を直撃したJリーグバブル。当時の『週刊ベースボール』助っ人選手特集のリード文も「Jリーグの鹿島アントラーズの例を出すまでもなく、日本のプロスポーツは助っ人の活躍がポイント」とサッカーブームに触れているが、そこで紹介されているのがグレン・ブラッグス(横浜)だ。横浜大洋ホエールズから横浜ベイスターズへ生まれ変わったチームの新たな顔は、192cm、105kgのマッチョマン。メジャー通算692試合、打率.257、70本塁打、321打点。プロ1年目からマイナーの1Aで三冠王に輝いた逸材はブリュワーズでデビューし、レッズ時代は四番も打ち、90年にはワールド・シリーズ制覇も経験している。

 93年春に推定年俸1億7500万円で横浜へやって来た30歳の助っ人のフリー打撃を初めて見た長池徳士ヘッドコーチは、「内角をうまくさばく外国人は珍しいね。勝負してくれれば50本塁打はいくでしょう。(昨年MVPの)ハウエル(ヤクルト)より上」と大活躍に太鼓判。86スイングで22発のサク越えに近藤昭仁新監督も「正真正銘の大リーガー。こんないいの見たことない。フィルダー(元阪神)みたいに帰られないようにしなきゃ」なんつって大ハシャギしてみせた。ウエートトレーニングで鍛え上げ、空振りしたバットが背中に当たって折れたことが年に4回あると豪語する規格外の怪力が話題になったが、ブラッグスはパワーだけじゃなく確実性も併せ持っていた。

2年目にバッティングが爆発


94年6月22日の中日戦(ナゴヤ球場)で死球を受け大乱闘


 開幕直後こそ静かなスタートだったが、日本人投手の攻めに慣れだした6月には脅威の月間打率.485で月間MVPを受賞。新婚のシンディ夫人の来日に気を良くした背番号44は、ホームランダービートップを走りながらヒットも量産し、7月15日のヤクルト戦では外国人選手最多の29試合連続安打も記録。41年ぶりにチームレコードも塗り替えた。

 しかし、その前日の神宮球場クラブハウスで階段を踏み外し、右手を突いて小指を骨折していたことが判明。全治2カ月でシーズンを終え規定打席には届かなかったが、72試合で打率.345、19本、41打点、OPS1.051というハイアベレージを残した(同年のセ首位打者は阪神のオマリーで打率.329)。94年3月発売の記念すべき人気野球ゲーム・パワプロ第一作『実況パワフルプロ野球’94』では、ミート7にパワー141とゲーム内屈指の強打者として子どもたちの人気者に。

 筋骨隆々の『特攻野郎Aチーム』に出てきそうなアクション・スターばりのド迫力な風貌にもかかわらず、真面目な性格で酒もタバコもやらず、部屋でビデオや衛星放送を見て気分転換する物静かな男。そして来日2年目の94年シーズン、開幕前に待望の第一子が生まれ故障も癒えたB砲は爆発する。序盤からホームラン王争いでリーグトップを走り、『週ベ』94年5月30日号の名物コーナー「パンチョ伊東の異邦人見聞録」にはロングインタビューが掲載されている。

 日本で好調の要因を聞かれると、「ナガイケさん、今年はタカギさん(高木由一コーチ)が実に、対戦する投手に合ったアドバイスをしてくれるんだ。こういうグッド・インストラクターの言葉がベストだね」なんて感謝を示し、「巨人のピッチング・スタッフ、あそこはホント、いい投手たちで固めている。特にスターターが最高にいいと思うよ」と対戦相手への敬意も忘れない。さらに日本の生活に馴染むためにこんな意外な行動も。

「日本の生活をエンジョイするためには、まず日本語を覚えることが第一だと思い、カリフォルニアの自宅のあるサンバーナーディーノで、日本語クラスに入って、オフに勉強したんだ。まだ少しだけど、ひとつひとつの単語はかなり覚えたよ」

「(3月に誕生した息子の夜泣きについて)イヤ〜ッ、凄いんだ。昨夜も夜中の2時半ころかなあ。アッアーッと大きな声で泣くんだよ。目が覚めて、あやしたんだけど泣きやまない。仕方ないから、テレビを点けて、メジャー・リーグ中継を見てしまったよ。でも、可愛いもんだよ」

 日本の生活にも慣れ、パパになったブラッグス。公私とも充実した31歳は四番に座り、同僚のロバート・ローズやFA移籍してきた駒田徳広らとチームを牽引するが、6月22日の中日戦(ナゴヤ球場)で与田剛(現中日監督)の死球に、お前コノヤロー的にマウンドへ突進。来日してから受けた9死球中5つが中日戦とこれまでの鬱憤が爆発してしまい、炸裂する怒りの右ストレート。大乱闘騒ぎを引き起こすと10日間の出場停止処分を受ける。

“歴史的”なオールスターでMVPに


94年オールスター第2戦ではMVPに輝いた(左は広島野村謙二郎、右は中日・彦野利勝


 それでも7月3日の復帰初戦の中日戦でいきなり16号ソロ、さらに5日、6日の広島戦でいずれもバックスクリーンへ17号、18号連弾。9日のヤクルト戦でもバックスクリーンにブチ当てる19号に、左中間スタンド上段へ両リーグ最速の20号を叩き込む。そのミサイルのような打球速度と飛距離は図抜けており、20本中9本が130メートルを超える特大アーチだった。4月29日のヤクルト戦、横浜スタジアム開場17年目にして、最長不倒距離ホームランとなる左翼場外へ消えた一発は今でも語り草だ。

 週べでも「大砲をしのぐB砲 ホンモノのアーチストぶりを発揮するケタはずれのスゴ味」と取り上げられ、夢の球宴でパ・リーグの投手たちは対戦したい相手に横浜の背番号44を挙げた。初出場の20歳1カ月のゴジラ松井が全セ四番、20歳9カ月のイチローが全パ一番に座り、それぞれ新人賞を獲得した歴史的なオールスター戦で、ブラッグスは第2戦で3打点を挙げMVPを獲得。野茂が渡米する前年の1994年、まだリアリティのない現役大リーガーのパワーを日本の野球ファンに見せてくれたのがB砲だった。

 このシーズン、チームは最終戦で最下位が決定するが、ブラッグスは122試合、打率.315、35本塁打、91打点、OPS1.023の好成績(本塁打と打点はリーグ2位)を残す。その後、96年まで横浜に在籍、通算打率.300、91本塁打、250打点。平成前半、大魔神・佐々木主浩とともに横浜の顔とも言える人気選手だった。

 なおケタ外れの怪力のパワーの源はやはりステーキやプロテインと思いきや、日本で出合ったカレーライス(Jリーグカレーではない)にハマり、毎日食べていたという。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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