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伊原春樹コラム

清原和博は“王さん超え”を果たすと確信していたが──/伊原春樹コラム

 

月刊誌『ベースボールマガジン』で連載している伊原春樹氏の球界回顧録。8月号では清原和博に関してつづってもらった。

門限破りに森監督が「子どもの日までは」


1年目に高卒新人最多の31本塁打をマークした


 王貞治さんの868本塁打を超えるのは清原和博しかいない――。1年目の豪打を目の当たりにしたとき、そう確信したのが思い出される。

 1985年、PL学園高で桑田真澄との“KKコンビ”で甲子園春夏連覇を成し遂げた清原。5度、出場した甲子園では13本塁打をマークしたが、それよりもセンター中心に右へも大きな当たりを放っていたことに「大したものだ」と感心していた。同年の秋、ドラフト1位で6球団競合の末、西武へ。同じチームとなったが、最初に清原の姿を目にしたのは1月、西武第二球場で行われた合同自主トレだったと思う。高校生離れした体格に驚いたが、特に両ももの太さにびっくりした記憶がある。

 ただ、最初から順風満帆だったわけではない。当時は一塁手にベテランの片平晋作がいた。前年、片平は規定打席には届かなかったが打率.306、10本塁打と好打を発揮。清原は開幕2戦目の南海戦で途中出場し、プロ2打席目に藤本修二から初本塁打を記録したが片平との併用が続いた。

 そんな折、4月下旬に仙台遠征があった。しかし、なんと清原が門限破りをしてしまう。翌日、森祇晶監督の下にコーチ陣が集合し、清原の処遇に関しての話し合いが行われた。まだ、実績のない新人が犯したルール違反。当然、コーチ陣は「清原を二軍に落とすべき」と声を並べた。しかし、黙ってコーチ全員の意見を聞いていた森監督はおもむろに「5月5日は子どもの日だよなあ。きっと清原を見に西武球場へ子どもたちがたくさん足を運んでくれる」と言い、少し間を置き「昨夜の清原の行為は俺に預けてくれないか。子どもの日まで、彼の様子を見てくれないか」と続けた。

「そこまでの成績が悪ければ二軍へ落すから」とも言ったが、清原を一流選手へと育てるために森監督は判断したのだ。果たして、清原は5日終了時点で打率.231、2本塁打、5打点と苦しい状況だったが、翌7日の近鉄戦で2安打すると、そこから勢いに乗っていった。

1年目が終わって慢心があったのか


入団発表時の清原。このころは初々しかった


 最終的には打率.301、31本塁打、78打点で新人王を獲得。広島との日本シリーズでも四番を打ち、打率.355、1本塁打で優勝選手賞に輝き、史上初の第8戦まで突入した頂上決戦でチームを栄冠に導く活躍をしてくれた。だから、冒頭のように“王さん超え”を期待したのだが、今思えばこの年のオフの過ごし方が失敗だったのかもしれない。

 歴代5位の525本塁打も立派な数字だ。だが、2年目以降、相手投手の攻め方が厳しくなるのは目に見えていた。だから、1年目のオフに内角への対処法をしっかりとやっておけば、もっと本塁打を重ねることもできたのではないかと思うのだ。例えば秋山幸二。以前も記したがアキは若手のころ内角打ちが得意だった長池徳士コーチに付きっきりで指導された。マシンで内角高めを徹底的に打った。そこは打者が最も嫌がるコース。内角高めを克服すれば、ほかのコースにも対応できるという長池コーチの考えだったが、アキは87年に43本塁打でタイトルを獲得している。清原は一度も打撃主要3部門で“キング”に輝けなかったが、それは内角への対応に難があったことが要因の一つだったのは確かだろう。

 さらに、もしかしたら1年目で好成績を残し、「プロはこんなものか」と慢心もあったのかもしれない。2年目は打率.259、29本塁打と成績は落ちてしまった。3年目は.286、31本塁打。もちろん、普通に考えれば高卒3年目では十分な数字だが、清原への期待値からすると物足りなく感じてしまう。

 清原も思うようにいかず、悩んでいたのかもしれない。確か、この3年目だったがシーズン中、私が森監督に用があり、監督室へ行くと部屋の中には清原がいた。何事かと思ったら、清原が四番を外してくれと言ってきたという。少し成績が悪かった時期だったのだろう。チームに迷惑をかけていると感じた末の行動だったのだが、そういった責任感は強いものがあった。

 4年目は打率.283、35本塁打、そして5年目はキャリアハイと言える自己最高の打率.307、37本塁打をマークしたが、これは前後の打者の力も大きかったのだろう。4年目の89年途中からデストラーデが加入。最強のクリーンアップ“AKD砲”が完成した。

 三番のアキが塁に出れば投手はその足を警戒しなければいけなくなる。そして、五番にデストラーデが控えているから、清原との勝負を避けるわけにはいかない。前後の圧力によって、清原へのマークも弱まった面もあったのだろう。もちろん、清原本人の努力もあった。なんだかんだ言っても、打撃に対する姿勢は真摯だ。イマイチ殻を突き破れない悔しさも糧になったはずだ。四番として状況に応じた打撃はするし、黄金時代西武に欠かせない中心打者であったことは間違いない。

もう一度、「野球道に全力」を


 ただ、打撃に比べるとやはり守備、走塁面への意識は若干低かった。私はその担当コーチだっただけに、余計に清原の“抜いた”ように見えるプレーが目についてしまうのは致し方ない。特に黄金時代の西武では気の抜いたプレーは許されなかった。全力疾走やベースカバー。当たり前のことを当たり前にやることが、すべての選手に求められていた。

 清原も決して足が遅くはない。ただ、体が大きいだけにスタートは速くない。しかし、中間走は十分なスピードが出ていた。ただ、もしかしたら本人は一生懸命に走っていたつもりかもしれないが、例えば凡打に終わったときなど、チンタラと走っているように私には見えたから「キヨ! ちゃんと走れ!」と激を飛ばすことが多かった。

 毎試合前、ノックも打っていたが、守備練習もそこまで積極的ではない。一度、打球を捕ったミットを自らの足で踏んで捻挫したこともあったし、神戸ではイレギュラーした打球をおでこに思いきり受けたこともあった。

 いずれにせよ、清原も私に注意されてばかりだと心の行き場がなくなってしまったかもしれない。そこできちんとフォローしてくれたのが森監督だった。「伊原さんにはいつもきついことを言われる。なぜでしょう」と森監督に泣きつく。すると、そこで森監督は「あまり気にするな」というようなことは言わずに「そうじゃないよ。伊原もキヨのために良かれと思って指導しているんだ。しっかりと受け入れてやりなさい」と優しく諭したという。こういった森監督の対応があったからこそ、私も清原に厳しく接することができたのだ。

 96年オフ、FA権を行使して、ドラフト時に因縁のあった巨人へ移籍したが、過度な重圧も受けていろいろと大変だったのだろう。体をむやみに大きくして、打撃に柔らかさがなくなったように感じた。さらに、耳に大きなピアスをつけてプレーすることもあった。「巨人軍は紳士たれ」という厳しい戒律があるチームなのに。非常に残念だったし、驚いた。当然、野球選手には最低限のドレスコードがあり、ピアスをつけてプレーすることなんて絶対に考えられない。当時の巨人には「それはダメだろう」と直言する人はいなかったのだろうか。清原も誰にも何も言われなかったから、「これでいいのか」と思ってしまったところもあっただろう。それはそれで、不幸なことだったかもしれない。

 そして、2016年、覚せい剤取締法違反での逮捕。今はただ、しっかりと罪を償って、自分の力で乗り越えて、更生の道を歩むことを願うしかない。ただ、清原も幼いころから野球をずっとプレーしてきて、自らを救ってくれるのは野球しかないはずだ。だから、「もう1度、野球道に全力」。この言葉を今は贈りたい。

写真=BBM

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