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谷繁元信コラム

江の川高で3年間過ごせて良かった理由とは?/谷繁元信コラム

 

『ベースボールマガジン』で連載している谷繁元信氏のコラム「仮面の告白」。ネット裏からの視点を通して、プロ野球の魅力を広く深く伝えている同氏だが、今回は母校「江の川高校」。広島で生まれ育ったにもかかわらず、島根県の高校へと進んだ。挫折から始まった高校3年間をつづる。

広島商、広陵ではなく広島工を受験した理由


夏甲子園に2度出場。88年はベスト8に進出した


 広島工業の受験に失敗して、江の川高校(現・石見智翠館)に進みました。

 受験を前にして、広島工のほかにも広島商、広陵から勧誘されていました。その中で広島工を選んだのは、単純に当時強かったからです。僕が中3だった1985年夏に甲子園出場(86年夏まで3季連続出場)。それを見ていて格好いいなと思ったのと、もうひとつ広島商は噂によると、こんなことをしているの? という練習メニューだった。本当かどうか分からないですけど、精神統一で刀の上に立つと。いやいや足が切れるでしょうと(笑)、自分の理解の範疇を越えていたんです。

 もう一校、広陵は僕と同郷で(広島県比婆郡=現・庄原市)ずっと野球を一緒にやっていた幼なじみが行くという。そのとき、なぜか違う環境の中でやりたいなという思いが僕の中で芽生えてきた。普通は中学時代の仲間と同じ高校に進んで頑張ろうと思うところ。僕はひねくれていたのかどうか分からないですけど(笑)、直感的にそう思って断ったんです。

 ろくに勉強もしないまま広島工の受験に臨んで不合格、二次募集をしていた江の川に受かりました。広島から見て中国山地の向こう側にある島根県に行くことになりました。

 僕の人生の中で挫折だったんでしょうね。でも、いま考えるとよかったなと思えるんです。人間的に成長しましたし、強くなれたと感じています。あそこで仮に広島工に行っていて、いまの自分があるかと考えたときに、もしかするとなかったかもしれない。逆に考えると運がよかった。

「強くなれた」のは、親元を離れて寮生活をしたことが大きかったと思います。江の川は厳しい環境でした。1年生のときは、自分の時間がほぼありません。その中で、洗濯、掃除、ご飯のよそい方など、いろんなことを教わりました。

 普通の高校生なら、休みの日に女の子と遊びたいとか青春を満喫したいと思うかもしれないですが、そういう気持ちは1〜2年生のときにはまったくなかったです。その中で、どこに希望を見いだしていたか。1年生のときに甲子園を目指していたかというと、正直クエスチョンマークですね。いまのこの時間をどう耐えていくか。その積み重ねでした。

 僕は運よく1年春の大会からベンチに入れてもらって試合に出ています。1年の4月はピッチャーだったんですが、5月の連休中の練習試合に打ち込まれて、キャッチャーに転向しました。その後、左ヒザに水が溜まって夏の県大会は一塁手として出場。背番号は18を着けて五番を打ちました。先輩もいましたけど、1年生の自分が五番でいいのかという感情もなかったと思います。先輩の足を引っ張らないように、何とか打たなければいけないなどと、そのときそのときで必死にやっていた記憶しかありません。その結果、結構打っていたと思います(県大会で13打数6安打、1本塁打)。

2年夏に全国レベル痛感。孤立覚悟で練習量アップ


 1年夏の県大会は結局、準決勝まで進みましたが、甲子園に出た浜田商に3対4で負けました。

 当時の島根県内では、浜田商、大社、松江東、益田東といった高校が強かったんですけど、その年の江の川は優勝候補だったんですよ。夏の大会前に練習試合をしていても、普通にやれば負けないだろうと思っていました。もうひとつ、県大会が行われるのは7月半ばですよね。「これで甲子園に行かなかったら、新チームになって丸々1カ月半、練習かよ」と、1つ上の先輩や同級生と話した記憶があります。準決勝で負けたときに、悔しさもあったんですけど、これは夏の練習が大変だぞと覚悟しました。

 それから1年。2年生の夏の県大会を前に、甲子園という目標が明確になってきていました。僕自身、四番を打っていてそれなりに自覚も生まれていた。決勝の川本戦は8対7と危なかったんですけど勝って甲子園出場が決定。うれしかったのと、もうひとつは、甲子園でも打てるんじゃないかと、自分のバッティングに関してちょっとした自信がありました。全国舞台の経験が一回もないのに、過信してたんでしょうね。

 いざ甲子園に行ってみると、1回戦でY校(横浜商)の古沢直樹というおない年のピッチャーに完封負けです。ボールが速かった。スライダーのキレもよかった。完璧にやられました。全国レベルを痛感させられました。

 と同時に、思いました。これは、もっと練習をやらなきゃダメだ、と。1年前の「練習かよ」ではなく、自分に力をつけて、甲子園に出て結果を残したいという意識に変わりました。僕自身、新チームではキャプテンに就任。チーム全体でレベルを上げていかないことには甲子園では勝てない。

 必要なのは、個々のレベルアップ。どちらかというと、それまではやらされる練習でした。きつい、嫌だなと……そうではなく目標を持って自分たちで主体的にやっていかないとダメだと思うようになりました。チームの空気としては、きつかったらどこかで手を抜くところも見えたんですけど、キャプテンになった以上、甘えを一掃しようと、強い言葉で練習させるようにしました。同級生と衝突する部分もありましたよ。でも、仲が悪くなっても、チーム内で孤立しても構わない。それぐらい僕は甲子園で勝ちたかったんです。

 秋の県大会で優勝。中国大会の準決勝で負けるまでは勝ち続けていたと思います。

3年夏の県大会で7本塁打。負ける気がしなかった


 さあ、甲子園だという矢先に、第二の挫折が待っていました。センバツ出場の選考から漏れたんです。

 あれは悔しかったですね。というより、疑問に思いました。いま思うと、大人の事情を初めて突き付けられた感じです。

 考えてみてください。中国地方の5県からは4校がセンバツに選ばれるんですが、僕らはベスト4に入ったにもかかわらず、甲子園に行けない。あり得ない。仮に中国地方の出場枠が3校だったら分かりますよ。でも、4校。これはもう、どんな理由をつけようが理由にならないです。

 当時はそんなことは口にできませんでしたが、あれから30年以上が経って、あの選考理由はおかしかったと言いたいです。

 当時の江の川は“外国人部隊”と称されるほど県外出身者が数多く占めているチームでした。県内の選手は1人しかない。そのことに対する世間の抵抗感があったと思います。

 でも、それなら県外の高校に行くなというルールを高野連が明文化すればいいんですよ。たとえば、県外出身選手が半分以上を占めるチームは、出場できないといった規則。それすらありません、

 いまや越境入学も普通じゃないですか。関西から青森、北海道へ行って甲子園を目指している選手もいるんですから。田中将大しかり、坂本勇人ダルビッシュ有しかり。時代とともに、僕らが感じた風当たりもなくなってきているので、それはそれでいいことだと思います。

 話を戻しましょう。センバツ落選を受けて、こうなったら夏は圧倒的な強さで県大会を勝ち進んで甲子園に行こう。僕はすぐに目標を切り替えて、そこからまた練習量が増えました。仲間たちもよっぽど悔しかったみたいで、みんな夏の大会に向けて心をひとつに頑張っていました。

 県大会では5試合連続ホームラン、通算7本を打つことができました。これもセンバツ落選の悔しさが原動力になったと思います。負ける気がしなかったです。

 甲子園ではベスト8まで進みました。初戦が2回戦でしたので、クジ運もよかった。伊勢工に9対3、天理に6対3。甲子園で優勝という目標は僕にはなかったですけど、とにかくひとつ勝ちたい、1本ヒットを打ちたいと思っていました。前年に打っていなかったので、1本打ちたい、その中で1試合勝ちたかった。伊勢工戦の4打席目にヒットが出たときにはうれしかったですね。

 準々決勝で福岡第一には負けたんですけど、ベスト8まで進んだことで島根に帰ってきたときの周りの歓迎ぶり、メディアの取り上げられ方が甲子園に行く前とは全然違う。最終的には悔いなく高校野球生活を終われたなと思っています。

 高校卒業後、プロに入って現役生活を27年。高校時代を合わせれば30年になります。その中で、江の川での3年間はどんな日々だったのか。中学校3年生は子どもじゃないですか。その子どもから大人になるための2回目の土台を作ってくれたと思います。1回目の土台は故郷、広島。島根はさらに強く成長させてくれた。第二の故郷といえるほど深くは関わっていないですけど、僕を強くしてくれた場所であることに変わりません。江の川高校での3年間がなかったら、全然違う人生になっていたと思います。

●谷繁元信(たにしげ・もとのぶ)
1970年生まれ。江の川高校(現・石見智翠館)にて甲子園に出場し、卒業後、ドラフト1位で横浜大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)に入団。98年にはベストナイン、ゴールデングラブ賞、最優秀バッテリー賞を獲得しチームの日本一に大きく貢献。2002年に中日ドラゴンズに移籍。2006年WBC日本代表に選出され、2013年2000本安打を達成。2014年シーズンから選手兼監督になり、2016年現役引退を表明。通算3021試合出場、27シーズン連続安打、同本塁打を達成(いずれもNPB歴代最高)。2016年に中日ドラゴンズを退任後は、各種メディアで評論家、解説者として活動を行う。著書に『谷繁流キャッチャー思考』(日本文芸社)。

写真=BBM
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