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プロ野球20世紀の男たち

金田正一「最強の左腕が積み上げた通算400勝を支えたもの」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

球種はストレートとタテのカーブのみ



 巨人で通算868本塁打を放った王貞治と、国民的スーパースターの長嶋茂雄。一時代どころか、時代を築いた“ON砲”だったが、もちろん順風満帆、無人の荒野で快進撃を続けていたわけではない。そんな2人に立ちはだかった男たちもいた。その筆頭格といえるのが左腕の金田正一だ。いや、“ON”の上に君臨するような存在だった。最初に所属したチームは国鉄スワローズ。現在のヤクルトだ。若い人には、この国鉄という言葉にも説明が必要かもしれない。国鉄が分割民営化でJRとなってからも、ずいぶんと月日が流れた。もちろん、その出来事よりも昔の話だ。

 1958年、“ゴールデン・ボーイ”と騒がれた長嶋のデビュー戦では4打席連続で空振り三振を奪ってプロの意地を見せたが、このとき、すでにプロ9年目に突入していた。前年までに積み上げた勝ち星は182勝。この58年には自己最多の31勝で2年連続2度目の最多勝に。のちに自身が設立に携わる名球会への入会資格のひとつは通算200勝だが、早々にボーダーラインを突破したことになる。

 2リーグ分立の50年シーズン途中、17歳のときに国鉄へ入団した。翌51年には22勝。18歳35日で史上最年少のノーヒットノーランも達成している。球種は基本的にストレートとタテのカーブという2種類のみで、球は速いが、とにかくノーコン。制球が安定していくにつれ、奪三振も増えていった。これには、所属していたチームが国鉄だったという事情もある。とにかく国鉄は弱かった。打たせて取る投球では失策を招く。ピンチの場面では三振を奪うしかなかったのだ。

 バットを持っても、野手をしのぐ勝負強さを見せた。54年8月21日の中日戦ダブルヘッダー第2試合(中日)では、左腕では初の完全試合を達成。愛知県の出身で、地元の球場での快挙だったが、9回裏に判定を巡って地元ファンが暴走、40分ほどの中断があり、「そんなにワシのことが嫌いか!」と怒りに震えたが、いざマウンドに戻れば、たったの6球、2連続三振で試合を締めくくっている。

 サービス精神も旺盛。常にファンを楽しませることを考えていた男でもあった。グラブを叩きつけるパフォーマンスもあったが、

「打者が狙っているところに(球が)行く。火花が散る。これがおもしろいのだ。ピッチャーがのらりくらりしていたら、球場はお通夜みたいになってしまう。10の力を12まで出し切り、頭からハッスルして相手に向かっていく、そうせねば魅力ある試合はできん」

巨人V9の礎に


 強靭な体躯を支えたのは人一倍の練習とストイックなまでのコンディショニングだった。17歳でプロ入りしたときの母の教えは「月給は残さんでいい、貯金もしなくていい」。練習が終わると、時間を置かずに風呂へ入り、市場で勝ってきた最高の食材で鍋を作って、ほかの選手とワイワイしながら、ゆっくり食べた。現在の栄養学で推奨されていることを自ら考え、実践。余計な神経を使いたくないと運転手を初めて雇ったプロ野球選手でもある。

 国鉄への愛情も人一倍だった。国鉄は65年にサンケイへ球団の経営権を譲渡。当時は“B級10年選手”という権利があり、サンケイに自分を排除する動きもあったことから、それまでは打倒の目標だった巨人へ移籍した。巨人は優勝、日本一。プロ16年目にして初めて味わう歓喜の美酒は、巨人V9の幕開けでもあった。ヒジ痛の悪化で自身の数字は減らしたが、川上哲治監督は「巨人の選手は俺たちほど練習するものはいないと自負していた。ところが、金田君の練習量は並大抵ではない。そこで選手の目の色が変わった。それがV9の礎を築いた」と振り返っている。

 69年に通算400勝を花道に引退。前人未到の数字は、おそらく空前絶後だろう。ロッテの監督としてもサービス精神は健在で、巨人V10の夢を破った中日を日本シリーズで下して、日本一監督にもなっている。

写真=BBM
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