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プロ野球20世紀の男たち

張本勲「通算3085安打の後悔」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

暴れん坊どもが夢の跡……



 現在は東京の閑静な住宅街にたたずむ駒沢オリンピック公園。そこに、10年にも満たない短い期間ながら、プロ野球が開催される野球場があった。当時は畑のド真ん中。内野スタンドも土盛りで、風が吹けば砂塵が舞った。駒沢球場。そこは、“暴れん坊”たちの棲家だった。

 彼らの名は東映フライヤーズ。駒沢球場では球宴が開催されたこともなく、東映の優勝を見ることもなく役割を終えたが、そんな“暴れん坊”たちの中心にいたのが張本勲だ。今は東映という球団もフライヤーズという愛称も残っていないが、今でもテレビで元気な姿を見せるレジェンドが、無数のハンディキャップと戦いながら、通算3085安打を積み上げた若き日の姿があった。

 広島県の出身。父親が早くに亡くなり、貧困の中、母親に女手ひとつで育てられた。少年期から負けん気と腕っぷしが強く、ガキ大将。そして野球もうまかった。県下の強豪校からは“武勇伝”で門前払い。転校した大阪の浪商高では暴力沙汰の濡れ衣を着せられ、甲子園への道が閉ざされた。2年生の夏にプロへ誘ってくれた水原円裕監督が率いる巨人への入団を希望し、あらためて水原も誘ってくれたものの、水原が球団と対立していたこともあり、かなわず。中日も熱心で契約金も多かったというが、「花の東京で勝負したい」(張本)と、1959年に駒沢球場を本拠地とする東映へ。

 そして恩師の松木謙治郎コーチと出会う。現役時代は勇猛果敢な強打者で、タイガースの監督も経験した名伯楽。松木は4歳のときの火傷でハンディが残っていた右手の力が弱いことを見抜くと、「強いライナーを打ち返す中距離打者」(松木)へと導いていく。開幕から先発出場を果たすと、6月からは四番にも座り、そのまま新人王に。水原監督となった61年には初の首位打者に輝いた。駒沢球場ラストイヤーでもあったが、東映はV逸。首位打者の歓喜よりも悔しさが上回った。

 東映の初優勝、日本一は翌62年。MVPに選ばれた22歳の若者は天狗になった。その鼻が折られたのが翌63年の球宴。同い年でもある巨人の王貞治が打撃練習をしているのを見て、震え上がった。同じ左打者ながら、スイングも、打球のスピードも違う。同期のプロ入りで、芽が出るのに時間を要した王の上に自分がいると思っていたが、自分が止まっている間に王が積み重ねたものを目の当たりにして、言葉を失った。そこから低迷。首位打者に返り咲いたのは67年だった。

史上最高打率を決めた“必殺技”


 以降4年連続で首位打者。70年は当時の歴代最高となる打率.3834での戴冠だった。全方向に打ち分ける“スプレー打法”が武器だったが、新記録を決めたのはセーフティーバント。周囲から「卑怯」と言われて封印していた、いわば“秘密兵器”だった。

 76年に巨人へ移籍。親友の王と“OH砲”を組んで、長嶋茂雄監督の初優勝、リーグ連覇に貢献する。80年にはロッテへ。5月28日の阪急戦(川崎)で、本塁打で通算3000安打に到達。最愛の母が球場に来ており、その目の前での快挙に、珍しくヘルメットを放り上げて喜びを爆発させたが、「打たれた投手に失礼。恥ずかしい。非常に後悔しています」と悔やむ。後悔は、それだけではない。翌81年、通算3085安打を残して引退したが、

「あのとき、こうすればよかった、ああすればよかった。なんであのとき、遅くまで飲んでしまったのか。なんであのとき、女の子と遊びに出かけてしまったのか(笑)。人間は誘惑に弱い。楽したいというのが心のどこかに必ずある。それに打ち克たなければならない」

 それでも、通算打率3割、300本塁打、300盗塁の“トリプルスリー”を残したのは唯一。通算打席は1万1122を数えるが、

「楽しくて打席に入ったことは1度もない。必死に打ちにいった。ただ、力だけでも技術だけでもダメ。運も必要。体調20パーセント、運20パーセント。残る60パーセントが力、実力。そう思っています」

写真=BBM
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