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プロ野球20世紀の男たち

吉田義男「猛虎が誇る名遊撃手を支えた守備理論」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

堅実性を呼び込んだ合理性



「守備で道を究めたという自負はあります」

 と胸を張る。“猛虎フィーバー”の1985年、阪神を26年ぶりの優勝、2リーグ制で初の日本一に導いた監督としての記憶も新しいが、

「監督は別ですけど(笑)、野球選手が技術を追求するときは、妥協せず、切磋琢磨していく姿勢は必要やと思いますよ」

 阪神だけではない。史上最高の名遊撃手と言われるのが、1950年代から60年代にかけて活躍した吉田義男だ。小柄で細身、そして華麗な遊撃守備で“今牛若丸”と呼ばれたが、Vイヤーの64年にマークした179打席連続無三振、通算264犠打は長くプロ野球記録だった。盗塁王も2回。国鉄と巨人で通算400勝を挙げた金田正一と相性が良く、大柄な金田を打ち負かす姿は弁慶と牛若丸の対決さながら。ミートには天性のものがあり、速球に強く、強靭なリストを生かして打球スピードもあった。

 打っても走っても一流だが、その遊撃守備は超一流。グラブだけを伸ばすのではなく、体の正面で、そして両手で捕り、「捕るが早いか、投げるが早いか」と言われた早ワザで、素早く投げた。

「必ず正面に入るフットワークで、目の前でプレーすること。それで確実性も高まります。早く持ち変えるため肩のラインと両手で三角形を作る。右手とグラブが一対にならないといけないんです。僕は必ず三角形の頂点で捕りました。そのほうが次の動作に移りやすい。それに、どう足の運びを組み合わせていくか、いかにムダを省くかと徹底的に考えました」

 併殺の際には五条大橋の牛若丸のように高々と飛び上がってファンを沸かせたが、これも決してファンサービスではない。

「併殺は基本的には投げてから飛びます。飛びながら投げるのは窮余の策ですわ。教わったのはウォーリー与那嶺(与那嶺要。巨人)ですわ。あのローリングスライディングを、どうやって避けるか。逆に、どうやって優位に立って相手を避けさせるか。アメリカでは併殺をファイン・アートとかいう言い方をしますが、確かに、そうだと思いますな」

 一挙手一投足が合理的。その礎となったのが卓越した練習量だった。

「体が小さいものですから、デカい人に勝つにはどうしたらいいか、いろいろ考えました。そのためには、できるだけボールを所持している時間を短くしなきゃいけない。捕って、すぐ投げるということ。いつもボールとグラブを持ってましたな。全体練習だけじゃなく、合間にもフェンスやトタン板、寮でも部屋の壁にボールをぶつけて、ずっとやってた」

 ボールがグラブの中で動いているうちに手を入れるため、突き指が絶えなかったという。

遊撃だけ攻める言葉が入っている


「グラブは体の一部。(現役生活の)17年間で3つくらいしか使ってない。ボロボロですけど、自分で直して、パンコを抜いたりして調整していた。グラブにも自分の神経が行き届くくらいに考えていましたな」

 遊撃というポジションにも矜持を見せる。

「守備位置の中で遊撃だけ、“撃”と、攻める言葉が入っていますよね。口でどうこう言うわけやありませんが、守備の主導権を握り、リーダーになるポジションやと思います。いいチームは必ずショートがしっかりしているんと違いますか」

「ゴロを捕るために生まれてきた」と評された白坂長栄、バックトスを代名詞にした鎌田実との二遊間、巨人の水原茂監督をして「吸い取り紙のようにヒットを凡ゴロにした」と言わしめた三宅秀史との三遊間は鉄壁。53年のチーム192併殺はプロ野球記録だ。

「僕の夢はね、メジャーで日本人の遊撃手が活躍することなんです。誰もいないでしょ。みんな行ったらセカンドになっちゃう(笑)」

 その視線は後進にも注がれている。阪神の監督も3度にわたって務めた。就任1年目にして阪神を頂点に導いたのが第2期。現役時代の背番号23は、そのときの退任にあたって阪神の永久欠番になっている。

写真=BBM
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