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プロ野球20世紀の男たち

野村克也「崖っぷちに花を咲かせた“月見草”の革命」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

少年時代は巨人ファン!?


南海・野村克也


 夜に咲き、翌朝には散ってしまう月見草。そんなはかなげな花に自らをたとえたのが野村克也だった。各方面で語り尽くされているプロ野球界のレジェンドだが、テレビのボヤキ解説で人気のレジェンドが、なぜレジェンドたるかを知らない若い人のためにあらためて紹介する。

 バットを持っては通算2901安打、657本塁打、1988打点は歴代2位、3017試合出場は21世紀に入って谷繁元信中日ほか)が更新するまでは長く1位で、南海の四番打者、そして司令塔として1965年には戦後初の三冠王に輝き、MVPは5回、本塁打王は9回を数える。捕手としても監督としても超一流。南海の兼任監督として73年にはリーグ優勝に導き、退団後は“生涯一捕手”を掲げてロッテ西武と渡り歩いて、現役を引退してからは“ID野球”で低迷するヤクルトに黄金時代を呼び込んだ。

 この経歴からは、もっと豪快で恰幅のいい花のほうが似合いそうだが、当時は人気がなかったパ・リーグの選手だったことや、若手時代のことを振り返ると、謙遜ではなく、やはり「人知れず咲く月見草」(野村)なのかもしれない。

 京都府は丹後半島、日本海に近い網野町に生まれる。意外にも少年時代は巨人ファンで、“赤バット”川上哲治があこがれだったという。峰山高では無名の存在だったが、プロへの夢は捨てがたかった。授業中に各チームのメンバー表を広げ、司令塔が30歳を超えているチームを探した。35、36歳で引退する選手が多かった時代。当てはまったのが南海だった。父親を早くに亡くし、アイスを売ったり子守をしたりして家計を支えていたが、新聞配達のアルバイトで、南海がテスト生を募集していることを配達所にあった新聞で知る。

 当時は肩が弱く、遠投で落ちかけたが、なんとか合格。1年目の54年から一軍で9試合に出場しているが、主な仕事はブルペン捕手。そのオフ、突然の解雇通告。必死に頼み込み、なんとか残してもらったものの、崖っぷちには変わりなかった。翌55年には一塁へコンバート。それでも割り切って、ひたすら遠投を続けて肩を鍛えるなど、捕手としての土台を築いていく。

 秋には捕手に戻してもらい、ハワイキャンプにも帯同。ほかの捕手が故障やペナルティーで抜けた穴を埋めて打ちまくり、“親分”鶴岡一人監督をして「唯一の収穫は野村の成長」と言わしめた。続く56年からレギュラーに定着。その翌56年には30本塁打を放って、初の本塁打王に。59年には初めて優勝、日本一を経験した。

言葉の力と考える力


 打者としては投手を、捕手としては打者を、徹底的に研究。特に西鉄の稲尾和久は16ミリのフィルムを擦り切れるまで見た。打者は4タイプに分けて分析。打者への“ささやき戦術”も有名だ。阪急の山下健に「打たせてやる」と言われて三振に倒れた経験から、言葉が武器になることを学ぶと、そのためには打者の“夜の情報”も収集。ちょっと気持ち悪い(?)モノマネから泣き落としまで戦術も多岐にわたり、それに対峙した好打者たちのリアクションにも人間性がにじみ出ていて、これだけで長期の連載が組めるほどだ。

 阪急の“世界の盗塁王”福本豊とは名勝負を展開。投手に“クイック投法”を導入させたことは当時のプロ野球に革命を起こしたと言える。現在は一般的な作戦だが、当時は斬新で、球威が落ちるため投手陣からは「できない」という声も多かったが、これを配球でカバー。福本の盗塁を最小限に食い止めた。

 監督としても革命的だった。阪神を放出された江夏豊には「球界に革命を起こそう」とクローザーとして再生させる。当時は投手の先発完投が当たり前、救援投手は先発に失格した投手という時代だ。南海でもヤクルトでも、巧みな話術で選手の眠っていた才能を開花させた。いわゆる“野村再生工場”だ。

 言葉の力を支えた考える力。その名言や語録だけでなく、その裏にある思考まで掘り下げたら、1冊の本だけでは終わらなさそうだ。

写真=BBM
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