プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。 少しでも遠くへ、少しでも速い球を
その豪快無比の投球フォームは、誰に教わったものでもない。少年時代から、少しでも遠くへ、少しでも速い球を、と、体全体を使っているうちに、自然と身についたものだった。1990年に近鉄でデビューした野茂英雄。その“トルネード投法”は、さまざまな障壁を突破し、海の彼方でも猛威を振るう。
大阪府の出身。成城工高までは、ほぼ無名の存在だった。1学年上の
清原和博(のち
西武ほか)、
桑田真澄(のち
巨人)がPL学園高の四番打者、そしてエースとして活躍していたが、のちに清原は「噂を聞いたこともなかった」と振り返っている。社会人の新日鉄堺でフォークボールを習得したことで才能の花を咲かせた。88年のソウル五輪で銀メダル獲得に貢献。翌89年秋のドラフト会議では史上最多の8球団が競合、最後にクジを引いた近鉄の
仰木彬監督が交渉権を獲得する。
ほぼ無名とはいえ、成城工高2年の夏に大阪府大会で完全試合を達成した際にはプロのスカウトが視察に訪れたが、おそらくは、そのフォームに恐れをなして、姿を消した。一方で、そんな強烈な個性を仰木監督は尊重。調整法なども任される部分が多く、
「グラウンドを離れれば(仰木監督は)普通のオジサン。でも、自分を信用して使ってくれるので、ありがたい」
と語っている。迎えたシーズンは奪三振ショーの連続。“ドクターK”とも言われ、客席には“K”と書かれたボードも掲げさせたが、
「三振は結果。チームの勝利が大事です」
と素っ気ない。武器は150キロを超える速球と、数種類あったというフォークボール。制球難はあったが、打者に背中を向けてから投じるフォームもあって、それも打者に恐怖を与えるプラスとなった。そのフォームは球団の公募で“トルネード投法”と命名される。
最終的には18勝、287奪三振、防御率2.91で投手3冠。勝率.692もリーグトップで、MVP、新人王、沢村賞、ベストナインを含む“8冠”とパ・リーグを席捲した。ゲーム2ケタ奪三振21試合はプロ野球新記録。奪三振率10.99は規定投球回に到達した歴代の投手で最高の数字でもある。
以降4年連続で最多勝と最多奪三振、さらには最多投球回、そして最多与四球。その革命児たるゆえんは、フォームや成績にとどまらない。コンディショニングコーチの立花龍司とともに最先端のトレーニングに取り組む。ウエートを本格的に取り入れた、おそらくは日本で最初の投手でもあった。だが、5年目の94年は肩痛に悩まされ、8勝。就任2年目の
鈴木啓示監督との意見の衝突も囁かれ、オフの契約更改もこじれにこじれた。そして近鉄を任意引退。あえて退路を断って、活躍の場をメジャーに求めることになる。
その生き方が日本人選手の可能性を広げた
プロ6年目のメジャー挑戦。失敗を予想する声が圧倒的だった。ドジャースではマイナー契約からスタート。クレアGMから「メジャー契約は与えられるものではない。勝ち取るものだ」と言われ、黙ってうなずいたという。5月2日のジャイアンツ戦でメジャー初登板。31年ぶり、史上2人目の日本人メジャー・リーガーの誕生だった。6月2日のメッツ戦で初勝利。強打者たちのバットは次々に空を切り、最終的には13勝を挙げて、新人王、奪三振王に。“ノモ・マニア”なる熱狂的なファンも登場。その“トルネード旋風”が吹き荒れる様子は日本でも注目を集めた。
翌96年には自身初、日本人メジャー・リーガーとしても初めてとなるノーヒットノーランを含むメジャー自己最多の16勝。98年シーズン途中にメッツ、99年にブリュワーズと渡り歩き、2000年にはタイガースで日本人メジャー・リーガー初の開幕投手も務めた。
2008年に引退。ドジャース自体の監督だったラソーダは「彼が成功しなかったら現在これほどの日本人選手はメジャーでプレーしていなかっただろう。彼はパイオニアにふさわしい実力と人格を持っていた」と称えた。
写真=BBM