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プロ野球20世紀の男たち

松井秀喜「ゴジラの“巨人の四番1000日計画”」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

巨人軍の“真の四番打者”への道のり



“ゴジラ”という異名は高校時代から。すでに日米で通用するニックネームで呼ばれていたことは、今から振り返れば興味深い。21世紀にメジャー4球団を渡り歩いた姿も印象に残る一方で、20世紀最後の“巨人の四番打者”となったのが松井秀喜だ。

 星稜高では1年の夏に四番打者として甲子園に出場。2年の夏には初本塁打を放ち、3年の春には2打席連続を含む2試合連続3本塁打と大当たり。その夏の2回戦では5打席連続で敬遠され、社会問題にもなった。高校通算では打率.450、60本塁打。秋のドラフト会議では、復帰したばかりの巨人の長嶋茂雄監督が交渉権を引き当てる。

阪神ファンだったんで、嫌いでした」

 と巨人の印象を語りながらも、入団に迷いはなかった。そして、すぐに三塁から外野へとコンバート。長嶋監督は「100メートル11秒台の俊足を生かしたい」と言っていたが、

「11秒なんか出したことないんですけどね」

 と苦笑い。長嶋監督は、かつて自分が守っていた三塁ではなく、外野手として、より打撃に集中させたいと思っていたのかもしれない。

 背番号は55。巨人の先輩で、同じ左打者の王貞治が長く持っていたシーズン本塁打のプロ野球記録と同じ数字だ。長嶋監督は、この若き左の強打者に、かつての盟友の面影を見ていたようにも思える。王に長嶋の打撃論を注入したら、どうなるのか、と。もちろん想像だが、そんな夢想もまた、プロ野球のロマンだろう。そして、長嶋監督の夢とファンのロマンを実現させていくかのように、1年1年、着実に進化を続けていった。

 長嶋監督が打ち出したのが“四番1000日計画”。長い時間をかけて、“巨人軍の真の四番打者”として育て上げるプランだ。長嶋監督は自宅やホテルに何度も何度も呼び出しては、マンツーマンでスイングをチェックした。こだわったのはフォームではなく、トップスピードの“音”。長嶋監督が求める音がするまで、ひたすら素振りを続けさせた。

「長嶋監督は明らかに僕のときは違っていました。厳しかったし、最後まで褒められたことはありませんでした」

 1年目の1993年にはプロの壁にもぶつかりながら57試合の出場で11本塁打。翌94年にはFAで中日から移籍してきた落合博満が不動の四番に座った。

「落合さんは風よけのような存在でした」

 その姿を、三番打者として間近で見続けた。

2000年に四番で全試合に出場


 95年8月25日の阪神戦(甲子園)。落合の故障離脱で、初めて巨人の四番に座る。この試合は2安打2打点で勝利に貢献したが、落合の復帰とともに再び三番に。翌96年は開幕四番。すぐに落合が四番に戻ったが、7月、8月と連続で月間MVP、最終的には38本塁打、99打点、打率.314で“メークドラマ”の立役者となってMVPに輝く。ポイントをボール1、2個分、前でさばく意識を持ったことで打球が切れなくなり、本塁打の増加につながった。続く97年にはFAで西武から加入した清原和博が四番打者となり、やはり三番として37本塁打、103打点。2年連続で本塁打王には1本差で届かなかった。

 98年のキャンプでは左ヒザを痛める。のちのちまで苦しめられることになるのだが、その4月も絶不調。それでも、最後は34本塁打、100打点で初タイトルとなる本塁打王、打点王の打撃2冠に輝き、翌99年は無冠に終わったものの42本塁打を放った。

 迎えた2000年。長嶋監督は満を持して、開幕四番に指名する。そして、その期待に応え、三冠王にも迫る勢いで打ちまくって、長嶋監督にとっての最後の優勝、日本一の立役者となる。打率.316はリーグ3位にとどまったが、42本塁打、108打点で2度目の打撃2冠に輝きMVP。ダイエー率いる王監督との“ON決戦”となった日本シリーズでも3本塁打8打点、打率.381でMVPに。20世紀の最後に“真の四番”が完成した。

写真=BBM
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