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プロ野球20世紀の男たち

落合博満「史上最強“オレ流”の真髄」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

唯一無二の最強バットマン



“最強の打者”という称号は、なんだかんだで多くの打者に贈られるものだ。平成から令和へ、のような大々的なもの以外にも、漠然とした時代の節目は無数に存在し、その時代ごとに“最強の打者”がいる。評価の基準もさまざまだ。

 長距離砲なのか、安打製造機なのか、あるいは攻守走すべてに秀でた万能タイプなのか。これに守備の負荷なども考慮に入れたり、さらには評価する側の思い入れなども加味されたりすれば、“最強の打者”は量産傾向へと突入していく。1980年代に史上最多となる3度の三冠王に輝いた落合博満が、この“最強の打者”の1人であることへの異論は少ないだろう。

 堅実性と強打、そして勝負強さを兼ね備えた打棒ながら、プロ野球記録の頂点にある目立った数字は、ロッテでのラストイヤーとなった86年の出塁率.487、これも85年に規定が改められてからのものだ。だが、その独特な“最強性”に並ぶ“最強の打者”は見当たらないように思える。

 そもそも、プロ野球選手への道が閉ざされる可能性も高かった。幼少期から野球一辺倒だったが、秋田工高でも、東洋大でも、野球部の上下関係に納得できず退部。秋田工高では大切な試合だけ監督が呼びに来て四番を打っていたが、東洋大は中退している。社会人の東芝府中で野球を再開し、26歳を迎える79年にロッテへ入団した。

 そのロッテでも、打撃指導への評価は歴代屈指といえる山内一弘監督の指導を拒否。のちに自身の技術が高まり、山内監督の指導も分かるようになった旨を語っていることからも、このときはまだ“オレ流”は諸刃の剣、それも、自らに向いた刃のほうが鋭い剣だったのだろう。

 それでも、チームの先輩で捕手の土肥健二を観察し、その握りの柔らかさとバットスイングのしなやかさを自らの打法に採り入れると、その打棒は一気に開花。82年にはプロ野球4人目、戦後最年少で三冠王に輝いた。だが、このときも「成績が平凡」などの批判を浴びることになる。2度目の三冠王となった85年は52本塁打、146打点、打率.367。批判しようのない圧倒的な数字を残すと、翌86年も2年連続で三冠王に。

 だが、そのオフ、稲尾和久監督が解任されると移籍を志願。現在のようなFA制度がない時代、これほどの強打者が移籍を志願するのは異例だった。結局、クローザーの牛島和彦を含む4人との交換で中日へ。その後は数字としては下降線をたどっていくが、その存在感は、すでに唯一無二のものとなっていた。

「ファンあってこそのプロ野球だからね」


 打撃2冠の90年オフには日本人選手として初めて年俸調停を申請。金額ではなく、年俸調停の存在を知らしめることが目的だったという。93年オフには導入されたばかりのFA制度で、

「長嶋(長嶋茂雄)監督を胴上げしに来た」

 と巨人へ。グラウンド外でも発揮された“オレ流”は、後進のための道を切り開いた。それはグラウンドでも同様だ。巨人1年目の94年、シーズン最終戦は、のちに“10.8”と言われる伝説の一戦。古巣の中日とプロ野球で初めて同率で並んだ最終戦の優勝決定戦だ。2回表には先制ソロを放ったが、3回裏の守備中に負傷。それでも、テーピングを巻いてグラウンドへ戻った。4回には自ら申し出てベンチへ下がったが、その姿は巨人ナインを奮い立たせる。巨人は優勝。バットで有言実行を果たしながらも、胴上げには加われず。左足を引きずりながら、歓喜の輪を嬉しそうに見つめる姿があった。

 97年には日本ハムへ。同じ一塁手の清原和博西武からFAで加入したことで、

「長嶋監督が悩む姿を見たくない」

 と自由契約を選んだ結果だった。

 98年オフに日本ハムを“退団”。

「引退じゃない。どこでも声がかかればやるよ。だから退団なんだ。契約できればプレーする。契約がなければバットを置く。それだけだよ」

 だが、最後の試合となった10月7日のロッテ戦(千葉マリン)では、試合後に球場を出て、多くのファンが並ぶサク沿いを握手して回った。

「ファンあってこそのプロ野球だからね」

 通算2371安打。だが、名球界には入っていない。それももちろん“オレ流”だ。

写真=BBM
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