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プロ野球20世紀の男たち

別所毅彦「直球と完投にこだわった剛腕の投球理念」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

稀代の剛腕、マウンドに倒れる



「投げたら完投は当たり前」

「登板が3日も空くと調子が上がらん」

 引退の間際まで、こう言い続けた。現代の理論から暴挙のような話だが、この男の場合は、理論というよりは理念に近い。

「直球を打たれた相手には抑えるまで徹底して直球を投げ続ける。投手は常に打者よりも強くなければならない」

「テクニックには限界がある。強い意志こそが念力を生み、持っている才能以上のエネルギーを生む」

 当然、普遍的な理念とは言えない。ただ、この言葉は、この男の生き方を象徴している。もちろん、戦中から戦後の1リーグ時代、そして2リーグ制となったころの遠い記憶だ。プロ野球記録の47完投を残した稀代の剛腕。南海と巨人で通算310勝を積み上げた別所毅彦だ。

 全国区になったのは滝川中のエースとしてセンバツに出場した41年で、おそらく現代では社会問題になるような出来事からだった。そのセンバツの準々決勝で左腕を骨折、腕を吊ってバランスを崩しながらも延長12回の二死まで続投し、後続が打たれてサヨナラ負け。翌日の新聞記事に「泣くな別所、センバツの花だ」という見出しが躍った。

 翌42年の秋に南海へ入団。その翌43年にはノーヒットノーランもあったが、

「誰も褒めてくれない。岩本(義行)さんに『何球カーブを投げた』と聞かれ、『10球くらいでしょうか』と答えたら、『投手は直球。一流は5球くらいしか投げないぞ』って(笑)」

 あこがれだった巨人の沢村栄治と話をしたのも、この42年だ。勇気を振り絞って速球のコツを尋ねると、ただ「は・し・れ」とだけ言われたという。だが、オフに応召。どうせならと特攻隊に志願したが、「お前は体が大きすぎて飛行機に入らんからダメだ」と失格、これで結果的に命拾い。46年にプロ野球が再開されると、1年だけグレートリングと名乗った南海で復帰した。だが、稀代の剛腕、優勝を懸けた最終戦の変則ダブルヘッダーで、試合前に優勝が決まって気が抜けたこともあったのか、5回にマウンドで倒れる。

「栄養失調でした。あの年は野球より食べ物。ひもじくて。勝利投手になったら米2合をもらうことになっていたんですが、米だけ食べても、なるんですね。だから、優勝記念の写真には僕は写ってないんですよ」

 翌47年が47完投で30勝を挙げて初の最多勝。続く48年には26勝を挙げたが、そのオフ、事件が起きる。

“別所引き抜き事件”の真相


「その年で契約が切れるんですよ。当時はスター選手が再契約で家をもらうことが多かった。結婚したばかりで、僕も家が欲しいと言ったら、ダメと。だったら、せめてほかの球団の選手と同じくらいの年俸が欲しいと。南海だけ異様に安かったんですよ。でも、それもダメと。イヤなら出ていけって言われました」

 このスキを突いたのが巨人だった。そして、本当に南海を出ていって、巨人と契約。これが問題となる。いわゆる“別所引き抜き事件”だ。最終的には移籍は認められたが、2カ月の出場停止処分。このとき、登録名を「別所毅」から「別所毅彦」に改めている。

 巨人でもエースとなった。52年には自己最多の33勝で2度目の最多勝、初のMVP。

「僕の全盛期です」

 と胸を張るが、悔いが残るのは6月15日の松竹戦(大阪)第2試合だという。9回二死まで完全試合ペースだったが、そこから判定にカッカして投げた棒球を代打の神崎安隆が内野安打に。なお、ブルペン捕手が主な仕事だった神崎にとって、これがキャリア唯一の安打だった。その後はシンカーも駆使するようになり、通算310勝で現役引退。

「通算300勝が頭にあったんですよ。(当時の)日本ではスタルヒン(巨人ほか)だけ。なんとか抜きたいってね」

 解説者としての豪快な笑い、そして露骨な巨人びいきも記憶に残る(?)豪傑だった。

写真=BBM
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