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平成助っ人賛歌

カープ・アカデミーの先駆者チェコ、年俸480万円男の快進撃とは?/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

ハングリーな23歳のドミニカン


背番号106の快速右腕・チェコ


 1995年(平成7年)はテレビ、音楽、出版でダウンタウンが天下を獲った年だった。

 毎週日曜放送の『ダウンタウンのごっつええ感じ』や『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』が高視聴率を叩き出し、自身が司会を務める音楽バラエティ番組『HEY! HEY! HEY! MUSIC CHAMP』において浜田雅功が小室哲哉プロデュースで「H Jungle with t」を結成すると、デビューシングル『WOW WAR TONIGHT〜時には起こせよムーヴメント』は200万枚を超えるダブル・ミリオンを達成。浜ちゃんはTBSドラマ『人生は上々だ』でも木村拓哉と共演し、こちらも平均視聴率20パーセントを突破。相方の松本人志は前年発売のエッセイ集『遺書』に続き、『松本』も200万部近い大ヒットとなった。ベテランの大御所とは違う、まだ30代前半の若い彼らのキレキレのお笑いに、月曜日の学校の教室では「昨日のごっつとガキ使、見た?」なんて挨拶が交わされるほどだった。

 同時期のプロ野球界でも、イチロー松井秀喜といった新世代のスター選手が台頭する。『週刊ベースボール』1995年5月29日号のジャイアンツ特集では、『四番育成「1000日計画」にプラスか、それともマイナスか!? 長嶋監督が打った窮余の策「六番・松井」13試合を総決算』という記事が掲載。当時の松井秀喜はプロ3年目。まだ20歳のスラッガーが開幕からの「三番・右翼」ではなく、六番降格で先発出場しただけで記事になるくらい背番号55に対する注目度は高かった。なお大学野球ページで「着実な成長で本塁打量産の“青い核弾頭”」と紹介されているのが青学3年生の井口忠仁(現・資仁)だ。前年秋のシーズンで三冠王を獲得し、MVPにも輝いた遊撃手には「来年のアトランタ五輪にも出場が十分に考えられる逸材」と最大級の賛辞が送られている。

 さて、同号掲載のスペシャル・インタビューは「エル・ウラカン(ハリケーン)のように吹き荒れる!」とロビンソン・ペレス・チェコが登場。広島が1990年にドミニカ共和国に設立したカープ・アカデミーからやってきた快速右腕は5月15日現在、早くも4完投で4勝。少年時代はセンターを守っていた男は、アカデミーで強肩を見込まれ投手転向し日本行きの切符を勝ち取る。

「93年、ボクが日本に最初に来た時の姿を見ているみんなは、今シーズンこれほど活躍できるとは思っていなかっただろうね(笑)。でも、正直言って、こんなに早く活躍できるなんて考えてもいなかった」

「台湾でピッチング・コーチに熱心に教えてもらい、それに基づいて実戦で、自分自身も必死にコントロールの矯正に取り組んできた。それが結果につながってますね。……日本のストライク・ゾーンは、とても厳しい(笑)」

「ボクはドミニカのアカデミーから出た日本のメジャー第1号です。とにかく第1号が頑張れば、これからの人たちの目標にもなるし、みんなも一生懸命やるんじゃないでしょうか」

 そう語るハングリーな23歳のドミニカンの活躍は、当時の日本球界で大きな話題となった。インタビュー内でも触れているように、チェコはこの2年前の93年にも練習生扱いで来日したが、制球に苦しみ自滅を繰り返し、右ヒジの故障にも悩まされ、94年には台湾に渡り時報イーグルスでプレーしていた。それが95年にカープ復帰すると、オープン戦のダイエー相手に5回1失点の好投を披露し「大進歩、及第点。あれはおもしろい」と三村敏之監督は一軍起用を示唆。とは言っても、背番号は106。あくまでアカデミーの一期生として将来への投資という側面も強かった。

北別府学の穴を埋める新エースに


登板を重ねるごとにチェコの注目度は上がっていった


 ところが、だ。4月12日の阪神戦(甲子園)の初先発をなんと無四球完封勝利で飾る。最速147キロの直球にスライダー、チェンジアップで9つの三振を奪い、その度にマウンド上で派手なガッツポーズをかますチェコ。大リーグのエンゼルスのアカデミーをクビになり、2年前に広島から自由契約。それがカープ球団史上初の外国人勝利投手になったわけだ。5月6日の地元初登板となった阪神戦では151キロを記録。投ゴロを素手でキャッチするガッツも見せ、160球の粘投で完投。チームトップの3勝目を挙げた。

 快進撃はその後も続き、6月17日の巨人戦(東京ドーム)では6回二死までノーヒット投球。終わってみれば“平成の大エース”斎藤雅樹との1対0の緊迫の投手戦を制し、2安打完封勝利で7勝目を手にする。30億円補強を敢行した長嶋巨人に対して、一軍最低保障に満たない年俸480万円の若者が見せた快投にファンやメディアは盛り上がった。

『実況パワフルプロ野球'95開幕版』において、スタミナAの223というチーム最高のタフさを誇り、とにかく先発チェコで行けるところまで引っぱり、野村謙二郎前田智徳江藤智金本知憲らが並ぶ強力打線で打ち勝つ戦法は子どもたちの間で人気に。クラスメートのI君はチェコが不調だとその度にリセットを押すセコい作戦を得意としていた。

 そんな名実ともに前年引退した北別府学の穴を埋める新エースに対し、三村監督も「メジャー・リーガーとして扱う」と調整法を本人に一任。先発前日はノースロー、登板当日以外は必ずウエートトレーニングで筋肉を鍛え上げる。食事面ではラーメンと焼き肉が大好物で、合宿所近くのファミレスのコーンスープもお気に入り。オールスター出場を果たすと、前半終了時に球団から1500万円の臨時ボーナスが支払われ、後半戦も1勝につき約100万円のボーナスを用意。まだネットも普及していない時代、家族への国際電話後は暗い顔をしているチェコを気遣い、アカデミーを通じて家族のビデオを届けさせたという。カープもドミニカ一期生を、球団を上げてバックアップしたわけだ。

翌年の契約を巡って球団と衝突


背番号が50に変わった96年は本領発揮といかなかった


 チームは主軸の前田智徳がアキレス腱断裂で長期離脱となりながらも、背番号106の獅子奮迅の活躍もあり、8月には一時首位のヤクルトに1ゲーム差に詰め寄り、最終順位は2位。チェコは28試合、15勝8敗、防御率2.74。10完投3完封と堂々たる成績で終えた。

 しかし、翌年の契約を巡り、カープ球団と大リーグ入りを目指すチェコの代理人・団野村が「パスポートも預金通帳も取り上げられ6年契約で縛られた」なんて激しく衝突。シーズン中から、ヤクルトの野村克也監督の息子でもある団氏がライバルチームの主力投手チェコに接触していることが問題視されていたが、のちに『週刊読売』で8月21日のヤクルトとの首位攻防戦を前にチェコが先発拒否したことも報じられ、対する代理人側は球団の統一契約書の署名偽造問題と参加報酬の一部未払いを指摘。野球協約第54条(支払い条項違反)によってチェコの契約は無条件解除することができると、11月7日にはカープ球団事務所に契約解除のFAXが一方的に送りつけられ、これには広島サイドも事実無根と団野村を名誉毀損で提訴するなど週刊誌上での告発合戦は泥沼化した。

 その後、代理人が代わったチェコの謝罪で収束し、あと1年はカープでプレーした後、97年からレッドソックス入りすることで騒動は沈静化したが、広島にとってもアカデミー出身選手の待遇や契約面など今後に大きな課題が残った。

 背番号50に代わった96年のチェコは、5月18日の阪神戦(甲子園)で9回二死まで2四球のみのノーヒット投球を披露するが、久慈照嘉に左中間にしぶとく落ちる二塁打を打たれ大記録は逃す(自己最多14奪三振の1安打完封勝利)。しかし結局、気持ちここにあらずで9試合で4勝1敗、防御率4.80という成績を残し、6月30日の先発登板を最後にチェコの姿はマウンドから消えた。あこがれのMLBでは、3年間で通算3勝5敗と目立った活躍はできず、2000年限りで引退している。

 日本での成功を夢見る95年のギラギラしたチェコは、オレがすべての打者を吹き飛ばしてやるぜ……なんて自身の帽子のひさしに「エル・ウラカン(スペイン語でハリケーンの意味)」とサインペンで書き記していたが、同年にアメリカ球界を席巻していたのがドジャースのルーキー・野茂英雄だ。日米で“トルネード”と“ハリケーン”が切り開いた新しい時代。

 チェコが大活躍した翌96年、“第二のチェコ”を目指しドミニカから広島へやって来た痩せっぽちの青年が、のちにメジャー・リーグでスーパースターになるアルフォンソ・ソリアーノである。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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