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プロ野球20世紀の男たち

秋山幸二、清原和博&デストラーデ「西武黄金時代を象徴する“AKD”」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

“ON砲”の再現を目指した“AK砲”


西鉄・秋山幸二(左)、清原和博


 巨人をV9という空前絶後の黄金時代に導いた王貞治長嶋茂雄のクリーンアップ“ON砲”については紹介した。通算868本塁打を積み上げた“世界の本塁打王”王に、圧倒的な人気を誇るオールマイティーな“ミスター”長嶋のコンビで、王が三番で長嶋が四番、あるいは、その逆で、王を敬遠すれば長嶋に打たれ、長嶋を打ち取って油断すれば王に打たれ、この2人が並ぶことが相手の投手にとっては脅威となっていた。

 だが、そんな巨人にとっても悩みはあった。それは、“ON”に続く五番打者の存在だ。あれだけの常勝チームでありながら、さらに上を目指す姿勢には頭が下がるが、球団の創設者でもある正力松太郎の「巨人軍はアメリカ野球に追いつき、そして追い越せ」という言葉もあって、外国人選手に頼るわけにもいかず、他球団から毎年のように大物を引き抜いては五番に据えたが、なかなか機能しなかった。

 V9が始まって7年目の1971年には生え抜きの末次民夫が五番に定着したものの、あまりにも存在が大きい“ON”の後を打つ難しさを、のちに末次は振り返っている。そして、V10を逃した74年には長嶋が引退。3人の最強クリーンアップという積年の夢は、満開の花を咲かせる前に散ってしまったといえるだろう。

 それから約10年後、1980年代も後半。“ON砲”の再現を目指したのが、巨人に代わって黄金時代を築きつつあった西武だ。ドラフト1位で86年に入団したのが、当時は王監督が率いていた巨人にあこがれて“裏切られた”清原和博で、背番号は長嶋と同じ3。長嶋は巨人1年目に29本塁打で本塁打王、新人王に輝いたが、清原も1年目のシーズン終盤には四番に定着、最終的には長嶋を上回る31本塁打を放って無冠ながら新人王に。そして翌86年、王と同じ背番号1を、球団が西武となって初めて着けたのが、プロ7年目の秋山幸二だった。

 攻守走に抜群の身体能力を発揮する秋山と、王のプロ野球記録を塗り替えんばかりに打ちまくっていた清原。ともに右打者で、“ON”とはタイプは異なるものの、この“AK砲”も強力だった。秋山は自己最多の43本塁打を放ってキャリア唯一の本塁打王に輝き、日本シリーズでは背番号1の王監督が率いる巨人を撃破。日本一を目前に守備中の清原が涙を見せた姿も感動を呼んだ。だが、この87年の五番はブコビッチ、翌88年はバークレオで、バークレオを含めた“AKB砲”と呼ばれたこともあったが、長続きせず。巨人と違って助っ人の力を借りることができるとはいえ、完成には遠かった。

黄金の継承


 ところが、89年シーズンの途中に、それは突如として完成する。6月に加入したスイッチヒッターのデストラーデが五番に定着すると、いきなり32本塁打。末次の背番号38に続く背番号39をデストラーデが要求したのは偶然だが、左右両打席から本塁打を量産する強打は、ある意味では“AK砲”を上回る存在感だった。

 さすがに89年は優勝には間に合わなかったが、開幕から“AKD砲”が機能した90年からは3年連続で日本一に。デストラーデは日本シリーズでも3年連続で、第1戦の第1打席で本塁打を放つなど、連続日本一の起爆剤となっている。

 だが、“AKD砲”も長くは続かなかった。3年連続日本一を果たした92年オフにデストラーデはメジャーへ復帰。それでも西武はリーグ連覇を続けたものの、93年オフに秋山が大型トレードでダイエーへ、96年オフには清原がFAで長嶋監督の率いる巨人へ去る。

 デストラーデは95年に西武へ復帰したが、かつての勢いはなくシーズン途中に退団、西武の連覇も止まった。一方で、その95年にダイエーの監督となったのが王だった。巨人と西武で、ともに背番号1で黄金時代を引っ張った王と秋山が、かつて西武の前身だった西鉄が黄金時代を築いた九州に、新たに黄金時代を築いていくことになる。

写真=BBM

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週刊ベースボール編集部

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