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パンチ佐藤の漢の背中!

奥村武博[元阪神]史上唯一!? プロ野球選手から公認会計士への転身、その経緯とは?/パンチ佐藤の漢の背中!

 

プロ野球選手から「公認会計士」への転身は、史上唯一ではなかろうか。1998年に中谷仁井川慶と同学年の同期入団で阪神入り。一軍出場こそなかったが、公認会計士試験に合格し、現在は一般財団法人アスリートデュアルキャリア推進機構の代表理事を務める奥村武博さんを、パンチ佐藤さんが訪ねた。

いきなり衝撃を受けた井川とのキャッチボール


パンチ佐藤氏(左)、奥村武博氏


 奥村さんが中学生のころ、土岐商高(岐阜県)に名門・県岐阜商高出身の工藤昌義監督が赴任。地元中学の中心選手たちが「みんなで土岐商に行って、甲子園を目指そう」と、集まった。甲子園の夢は叶わなかったが、3年の夏が終わったとき、監督から「ドラフト指名の話がある」と知らされた。

 すでに社会人野球チームから内定を得ていた奥村さんだったが、「プロにチャレンジするなら早いほうがいい」と心が動いた。1997年11月、阪神からドラフト6位指名。高卒でのプロ入りに反対する両親を説得し、自らプロの世界へと飛び込んだ。

パンチ 社会人の内定を蹴って、親御さんの反対を押し切ってのプロ入り。そこには今も悔いはない?

奥村 はい。僕は、まったく悔いはないですね。むしろ早くて良かったと思いますし、そこで先延ばしにしてプロに行けなかったときのほうが、後悔していたと思います。

パンチ とはいえ、プロは大人の世界。しかも阪神は人気球団でしょう。18歳の少年が入団して、いろいろ戸惑いもあったのでは。

奥村 人気球団であるために、二軍でも常に新聞記者が周りにいる環境。そこで、自分が有名選手になったように勘違いしてしまうんです。今思えば、あれが一番の戸惑いでした。

1998年の阪神入団発表にて。後列左端が奥村氏。前列左は井川


パンチ 井川慶(水戸商高=ドラフト2位)と同期入団だったんだね。何か印象に残っていることはありますか。

奥村 プロに入って初めてのキャンプ、最初のキャッチボールで「なんだ、コイツは」と思いました。こんなヤツが同じ高校生で、世の中にいたのかって。僕が助走をつけて思い切り投げなければ届かないような距離を、井川はひょいっと投げてくるんですよね。キャッチボールを一緒にやっているだけでも、井川の投げてくるボールは怖い。プロの一線で活躍している選手ならとにかく、同い年で一緒に入った選手にこんなヤツがいるのかという衝撃は、忘れられないです。

パンチ 茨城から出てきた井川って誰なのよって思っていたら、パーンッときた。なるほどね。

奥村 ドラフト2位なのでそりゃあな、とは思いましたが、想像以上でした。

パンチ ただ、井川を見て「すごいな」とは思っても、「2、3年経ったらひっくり返してやる」という気持ちもあったでしょう。

奥村 「彼には手も足も出ないな」というあきらめはありませんでした。「ひっくり返さないといけないな」とは思っていました。ただ、じゃあ井川より努力して彼の倍やるかというと、そこまでの取り組みはできなかったので、結局そこがプロ意識の違いだったのだと思います。井川は本当に、コツコツやっていましたから。

パンチ 例えばどんなふうに?

奥村 与えられたメニューでも、自分が納得するまでやめないんですよ。ランニングが遅くて、みんなが先に終わっても、井川は自分が終わるまでずっと球場を走っている。ウエートなんかもじっくり、マイペースでしたね。他の人間が上がっているから自分も上がるのではなく、自分のことをきっちりやる。その姿勢の積み重ねが、大きな差に変わっていったんだと思います。

パンチ イチローもそうだったもの。いろんなインタビューで言うんだけど、僕は亀だから休まずに頑張っていたんだけど、イチローはお昼寝をしないウサギなのよ。努力するウサギだから、あっという間に追い抜いて先に行っちゃう(笑)。だけど奥村君だって、自分なりに努力はしたでしょう。

奥村 自分なりにはやっていたつもりでしたが、今思うと甘かったです。なんでこの練習をやるのか、取り組む目的を理解しようとせず、ただ与えられたことをやっていた感じだった。そこは反省点だし、バカだな、もったいなかったな、と思いますね。そのときの反省が今に生きている部分はあるので、それはそれで良かったのでしょうが……。

パンチ 今に生かせているなら、いいんだよ。今も分からないヤツは分からないからね(笑)。プロで一番の思い出といえば、なんだろう。

2000年春のオープン戦。西武戦に登板した際の奥村氏


奥村 いい思い出はあまりありませんが、3年目の春のキャンプとオープン戦、一軍に帯同して野村(克也)監督の下でやらせてもらったのは、非常にいい思い出、経験になりました。野村監督に教わったことは当時、野球には落とし込めなかったけれども、今になってあらためて野村監督の本を読み返すと、どこかでその考え方が自分の実になっていたんだなと感じます。それが、今の活動にも生きていると思います。逆に言えば、そこでチャンスをいただけたのに、生かせなかったのは最も悔しい思い出ですね。

パンチ どうして生かせなかったんだろう。

奥村 プロ野球選手になりたいと思っていた夢が叶いプロになった時点で、そこがゴールのように感じてしまったんですね。本当はそこからが勝負で、競争していかなけれいけなかったのに、そういう思いに至れなかった。また、どこかで気の緩みもあって、ケガにつながったのだろうと思います。

パンチ 何が一番、プロのカベになった?

奥村 技術的な部分はもちろん、ピッチャーとしてスピードもキレも足りなかったですね。でも一番はやはり考え方、取り組む姿勢だったと思います。

自分がいかに世間知らずか社会に出て気付かされた


パンチ 戦力外通告を受けて、まずどうしようと思った?

奥村 1年間は打撃投手をやらせてもらったんですが、それもクビになってからは、飲食業界に行って、将来的にはお店を開きたいと思いました。

パンチ なんで飲食業を考えたの。

奥村 周囲の友達も飲食関係が多かったですし、自分もそういうところに出入りするのがキライではなかったので。なんとなく知った業界、野球界に近い業界という感覚でしたね。先輩にも飲食をやっている方が多く、真っ先に飲食業を思いつきました。

パンチ 元プロ野球選手という肩書については、そのときどう思っていた?

奥村 たぶん嫌だったんだと思います。だから、履歴書にも書かずに仕事していたんですよ。幸い名前が売れていなかったので、顔を見ても気付かれないし、それが結果的には良かったですね。

パンチ だけど、飲食業界で長くやろうとは思わなかった?

奥村 身近な業界だと思って入ってみたら、知らないことが多すぎたといいますか。自分がいかに野球しか知らない、世間知らずかを突き付けられまして……。

パンチ 例えばどんなことで、そう感じたんだろう。

奥村 それこそ履歴書の書き方も、最初は分からなかったです。面接に行くときも、野球界の常識のまま30分早く行ってしまった。早めの行動はいいけれども、向こうの人も「こんなに早く来られても困る」という具合で、野球界の常識が一般の常識とかけ離れていることを知りました。あとは仕事をする上での段取りの仕方とか、仕事のもらい方なども、なかなかうまくできなかったです。

パンチ 仕事をもらう、とは。

奥村 初めはアルバイトだったので、与えられた仕事だけやっておけばいいですよね。でももっと上を目指したいなら、言われた皿洗いだけいつまでもやっているのではなく、それを早く済ませて積極的に調理の手伝いを申し出るとか。高校時代はエースでやっていたら周りがなんでもお膳立てしてくれたし、プロに入ってからも新幹線のチケットからホテルの予約から、なんでもチームが用意してくれた。だから、日常生活でいえばバスの乗り方も降り方も分からず、初めは怖くてバスにも乗れなかったですよ。

パンチ それって結構、高校から直接プロに入った人が引退したときにありがちだよね。いきなり夢の世界から現実に引き戻されて、なんでも自分で行動しなければならない。そこのリセットがなかなかできない人間も多いよね。

奥村 飲食で働いていたときに、プロ野球選手という肩書がなくなったときの自分の扱われ方が――高卒で、特別な資格も職歴もないと、やれる仕事がどれだけ限られるかが分かりました。だから僕は、割と早く気付くことができたのだと思います。

プロ野球は数字が得意……!?


 2003年、大阪の街は阪神18年ぶりの優勝に沸いていた。MVPは20勝を挙げた井川慶。

 そのころ奥村さんは、大阪の飲食店でアルバイトをしていた。必死に皿洗いをし、メロンの種を手でかき出す。それでも井川の投げる1球の値段より、自分の日給は安かった。

「スタート地点は一緒だったのに、この差はなんなんだろう……」

 自分は、このままでいいのか。自問自答を繰り返しながらも、答えは出なかった。

 そんなある日、家に帰るとテーブルに分厚い1冊の本が置かれていた。それは、各種資格のガイド本。当時交際していた女性(現在の奥村夫人)が、「頭の中で思い描く仕事の選択肢を広げてほしい」と願って、買ってきてくれたものだった。

「世の中にはこんなにたくさんの仕事があるんだな。自分は視野が狭かった」――本を読み進めるうち、目に留まったのが『公認会計士』だった。

パンチ いやあ、僕はこんな派手な芸能界にいても、仕事がなくなったらどんなつらい仕事でもやっていく自信があるんだけど、その中に公認会計士は絶対ない(笑)。これから引退する選手からも、もう出ないんじゃないかな。

奥村 いや、意外といけると思いますよ。野球選手って、結構数字を元に何か考えるのが得意だと思うので。

パンチ 俺、ダメだよ。

奥村 でも何打数何安打で打率がこうだったら……とかって、よく考えませんか?

パンチ それとこれとは別だよ(笑)。だって僕がお世話になっている税理士の先生も、資格を取るのは努力の上に努力で、本当何回もカベをぶち叩いてストレス発散したって言っていたもの。なんでそんな大変なものにチャレンジしようと思ったの。

奥村 元プロ野球選手が誰も取っていない資格に、チャレンジすることに魅力を感じたのも一つです。僕は商業高校で簿記をやってきたので、多少知っている部分もありましたし。

パンチ そこはしっかり高校のとき勉強していて、基礎があったんだね。

奥村 日商簿記2級という資格がありまして、それを受けないと試合に出してもらえない学校だったんですよ。

パンチ それで、公認会計士の資格を取るまで何年かかったの。

奥村 合格までは9年かかりました。

パンチ ということは8回失敗した?

奥村 途中で試験が年2回になったので、回数で言うともっと多いですね。

パンチ その間は、何をして食べていたの。

奥村 途中までは飲食店やインターネットカフェ、宅配便の配達など、掛け持ちでやっていました。

パンチ そんな掛け持ちで、いったい何時から勉強していたわけ。

奥村 シフトによって時間は変わるので、空いた時間に勉強していました。

パンチ それで9年目に合格。うれしかったでしょう。

奥村 何よりホッとしましたね。喜びより先に安ど感というか。もう勉強しなくてもいい、と(笑)。

パンチ 合格したあとは、どんな段階を踏んで仕事を始めたんだろう。

奥村 試験に受かったあと2年間の実務経験と、3年間座学で勉強して単位を取らなければいけないんです。それをクリアして初めて『公認会計士』を名乗ることができます。

パンチ その期間はどうやって食べていたの。

奥村 会計士のメーンの仕事である“監査”を行なう監査法人の会社に勤めながら、勉強しました。

パンチ ところで、くだんの彼女とはいつ結婚したの。気になるよ。

奥村 試験に合格してから、籍を入れました。

パンチ それまで待っていてくれたんだ。この仕事へのきっかけを作ってくれたことも含めて、感謝しないとね。

奥村 はい、本当にそう思います。

パンチ 今の生活のリズムはどんな感じですか。

奥村 毎朝7時ぐらいに起きて出勤し、9時半ぐらいに事務所に着いて仕事を始めます。事務所で税金関係の仕事をする傍ら、講演に行ったり、非常勤で監査の仕事をしたりしていますので、毎日ここ(事務所)に来るわけではないんですけれども。ただ確定申告の時期など繁忙期には、事務所で終電の時間ぐらいまで仕事をしています。

パンチ 事務所にいくつかスポーツ関係のユニフォームが置いてあるけれども、これはクライアントさん?

奥村 そうです。野球に限らず、スポーツ選手の確定申告や会計面のお手伝い、スポーツ関連の会社や団体の会計面のお手伝いをさせていただいています。

スポーツをやることが次のキャリアでも役立つ


パンチ佐藤氏(奥)、奥村武博氏


パンチ 奥村君1人で、どのくらいのクライアントを抱えているの?

奥村 選手1人に対し、僕らスタッフ3人が担当として付きます。1人がメーンの担当で、もう1人は領収書の入力作業などをする担当。あとはそれを上で統括するボス的な人間。僕は真ん中になることが多くて、直接選手とやり取りをします。確定申告などで担当させていただく選手は20人くらいで、選手のやっている会社5、6社を担当させていただいています。

パンチ さっき名刺を2枚くれたよね。もう一つの肩書は。

奥村 アスリートデュアルキャリア推進機構という一般社団法人を立ち上げて、代表理事になりました。デュアルとは、人としてのキャリア、アスリートとしてのキャリア双方の形成に、同時に取り組む考え方。子どものころから野球だけをやってきて、「野球を辞めたら何も残っていませんでした」という感覚になる選手が結構多いと思うんですが、そうではなく「スポーツをやることが次のキャリアにもこういうふうに役立ちますよね」というところを世の中に啓蒙していきたいんです。

パンチ 講演も、そういった内容?

奥村 中学から大学まで、学生さん向けが多いですね。「何か一つのことだけじゃなくいろんなことに興味を持って、自分のアンテナを広げておくことが将来役に立つよ」と。自分で可能性を壊さないように、という話をさせてもらっています。「自分にはもうこれ以上ムリだな」とか「これはできないな」と自分で線引きをしないように。あとはスポーツをやっておいたら将来役に立つことを示して、スポーツをする子どもが増え、ひいてはスポーツ界の発展に貢献できればいいなと考えています。

パンチ 偉い!! もう、井川君にもまったく負けていないよ。

奥村 彼らが引退するとき、自分も競争できるようなポジションにいられればいいかなとは思っていましたので……。

パンチ スポーツ界全体のことまで考えているんだから、十分だよ。俺なんか、自分の幸せしか考えてないよ(笑)。

奥村 いやいや、ご自身の幸せあってこそ、パンチさんはみんなに元気を与えてくださっていますから。僕は岐阜出身でオリックスの試合をあまり見たことがなかったので、今日こんな機会をいただけて、非常に光栄です!

パンチの取材後記


 僕も自分が引退した翌年(1995年)、「がんばろうKOBE」を合言葉に、オリックスが優勝。「もう1年やっていたら、あの輪の中にいたのに」とみんなに言われましたが、実際元チームメートたちのプレーを見て、「俺はあの中にはいられなかっただろうな」と思いました。

 とはいえ、「イチローはすごかった、パンチはダメだった」と言われたくはなかった。「イチローはすごかった、パンチはテレビ向きだったね」と言われるようにと思って、ここまで頑張ってきました。今回の奥村君も、皿を洗いながら、メロンの種を取りながら、「いつか井川に並んで、いつかひっくり返してやるぞ」という気持ちで頑張ったのだと思います。彼は決して口には出しませんでしたが、相当な覚悟と、夜も寝ずに勉強するくらいの努力がなければ、公認会計士なんていう資格は取れなかったでしょう。

 そしてまた、日本を元気にする方向でも尽力を続けている。本当に、生き生きとしていましたよね。後輩たちにはチャンスのとき躊躇せず、プロの世界に飛び込んでほしい。そのあとのことは俺に任せろ、という奥村君の力強い言葉。ぜひ、デュアルキャリアの仕組みを確固たるものにし、球界に広めてください。

●奥村武博(おくむら・たけひろ)
1979年7月17日生まれ、岐阜県出身。土岐商高からドラフト6位で98年阪神に入団。野村克也監督から「小山2世」と称される制球力を誇るも度重なるケガに泣き、2001年限りで現役引退。02年は阪神打撃投手を務める。その後はアルバイトをしながら公認会計士を目指し、13年に合格。現在は一般財団法人アスリートデュアルキャリア推進機構の代表理事、税理士法人オフィス921のスーパーバイザーを務める。著書に『高卒元プロ野球選手が公認会計士になった!』(洋泉社)。

●パンチ佐藤(ぱんち・さとう)
本名・佐藤和弘。1964年12月3日生まれ。神奈川県出身。武相高、亜大、熊谷組を経てドラフト1位で90年オリックスに入団。94年に登録名をニックネームとして定着していた「パンチ」に変更し、その年限りで現役引退。現在はタレントとして幅広い分野で活躍中。

構成=前田恵 写真=矢野寿明
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