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プロ野球20世紀の男たち

村山実&江夏豊「“ON”に牙をむいた猛虎の左右エース」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

村山は長嶋、江夏は王をライバルに



 光が強ければ、影は濃くなる。かつて“職業野球”と蔑まれていたプロ野球は、1958年に長嶋茂雄巨人へ入団して以降、国民的な人気を博すようになった。同時に、巨人という“太陽”を中心に、プロ野球は回り始めたといえる。象徴的だったのが、59年6月25日、後楽園球場での“天覧試合”だ。巨人と阪神による伝統の一戦で、王貞治と長嶋の“ONアベックアーチ”第1号が飛び出した試合でもあるのだが、それをはるかにしのぐ大きな意味が、この試合にはある。それに触れると日本の近現代史にまで話が広がってしまうので割愛するが、その9回裏、左翼ポール際にサヨナラ本塁打を放ったのが長嶋であり、打たれたのが村山実だった。

「長嶋こそ巨人であり、倒さねばならない男」

 と、それ以来、村山は長嶋と通算334打席、そのすべてで真っ向勝負を繰り広げていく。対戦成績は302打数85安打、21本塁打、39三振、打率.281。村山は節目の通算1500奪三振、2000奪三振を長嶋から奪っている。

 その全身全霊で投げ込む姿に、人は悲壮感を見た。63年には巨人戦で自信の1球をボールと判定されて猛抗議、退場となって号泣したことも。巨人が光を放てば、それだけ濃い影を背負い、そして、それを跳ね返していった。

 天覧試合のあった59年は防御率1.19で最優秀防御率、新人王と沢村賞にも選ばれる。王が初めて本塁打王となった62年には防御率1.20で2度目の最優秀防御率。2リーグ制となって初めての優勝に貢献してMVPに輝いた。巨人V9の幕が開けた65年からは2年連続で最多勝、監督も兼ねた70年には防御率0.98で3度目の最優秀防御率。腱鞘炎や骨折、血行障害とも闘いながら、気迫のストレートと鋭いフォークを武器に投げまくった。

 そんな村山に、「長嶋は俺のライバルだから、お前は王をライバルにしなさい」と言われたのが、66年秋の第1次ドラフト1位で67年に入団した江夏豊だった。

「すでに王さんはリーグを代表する打者。僕は若僧でしたし、この人は何を言っているのだろうと。あとになって、長嶋さんは渡さんぞ、という意思表示と、一方で、僕をライバルとして認めてくれたということかもしれないと思った」

 と、江夏は振り返っている。2年目の68年に25勝で最多勝、世界新記録となる401奪三振。61年に稲尾和久(西鉄)が樹立したプロ野球記録353奪三振を更新する際には「王さんから決めたい」と公言し、タイ記録と新記録を勘違いして王から353個目の三振を奪う一幕もあったが、そこから凡打の山を築き、宣言どおり、354個目を王から奪った。江夏と王の通算対戦成績は、321打席、258打数74安打、20本塁打、57三振、打率.287。江夏にとって、もっとも本塁打を許したのも、もっとも三振を奪ったのも、この王だった。

阪神ひと筋の村山、流浪の“優勝請負人”江夏


 村山の引退は72年。翌73年のオープン戦での引退試合では、一時は確執もあった江夏らが騎馬を作って、マウンドまで運んでくれた。胸部疾患もあって体はボロボロ、さらには阪神の“お家芸”というべき内紛にも巻き込まれての引退だったが、阪神ひと筋を貫いて、

「タイガースは私の人生だった」

 と言えただけ、幸せだったのかもしれない。

 71年には球宴で9連続奪三振、巨人がV9を決めた73年には24勝で2度目の最多勝に輝いた江夏だったが、やはり心臓疾患や血行障害で体はボロボロ。75年オフには追われるように南海へ放出された。

 そこで兼任監督の野村克也と出会い、クローザーに転向。77年シーズン終盤に野村が解任されると、オフに広島へ移籍して、79年には初めて優勝を経験する。近鉄との日本シリーズでは第7戦(大阪)で“江夏の21球”と言われる名勝負を繰り広げた。翌80年も連続日本一に貢献し、続く81年に移籍した日本ハムもリーグ優勝に導く。阪神時代の剛速球は取り戻せなかったが、歴戦の投球術で“優勝請負人”として新たな花を咲かせた。

 村山と江夏。悲運や反骨といった言葉が似合うエースだ。影の色も濃い。だが、それこそが、この両雄を魅力的にしているように思える。

写真=BBM
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