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プロ野球20世紀の男たち

梶本隆夫&米田哲也「阪急の低迷期から黄金時代を投げ抜いた“ヨネカジ”」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

長かった“灰色の時代”


阪急・米田哲也(左)、梶本隆夫


 阪急の黄金時代については、足立光宏山田久志を紹介した際に少し触れた。ここでは、それ以前、長かった“灰色の時代”に歴史をさかのぼってみたい。まれにAクラスとなることもあったが、基本的にはBクラス。パ・リーグに人気がなかったことも手伝って、スター選手どころか、全国区といえる選手すら少なかった。そんな阪急を支え続けたのが、左腕の梶本隆夫と、右腕の米田哲也だ。

 先輩は54年に入団した梶本。1年目から新人ながら開幕投手を務め、最終的には20勝を挙げたが、新人王は投手2冠に輝いた南海の宅和本司だった。新人で20勝を挙げながら新人王になっていないのは梶本だけだ。打撃も良く、阪急の打線に精彩がなかったこともあって、代打や一塁で出場することもあった。3年目の56年には最多勝を争い、シーズン終盤に首脳陣から「リリーフで勝ち星を稼げ」と言われながらも、

「人の勝利は取りたくない」(梶本)

 と断ったという。最終的には自己最多の28勝も、タイトルには届かず。その56年に入団したのが米田だ。プロ4打席目で満塁本塁打を放つなど、梶本と同様に打撃が良く、入団直後から打者転向の話もあったというが、2年目の57年に21勝で大ブレーク。梶本と米田の左右両輪は“ヨネカジ”と呼ばれ、貧打に苦しむ阪急を牽引していく。

 同じ左腕でもある国鉄の金田正一をして「技術ならワシよりカジ(梶本)が上や」と言わしめた梶本は186センチの長身ながらスリークオーターで、快速球を武器に三振の山を築いた。ただ、最大の武器はマッサージを必要としなかったという柔らかい筋肉と可動域の広い関節。長い腕をムチのようにしならせて、ネット裏の観客がホップして見えたというほど、伸びのある速球と落差の大きいドロップを投げ込んだ。

 制球に難があり、四球も多かった梶本の一方で、卓越した制球力を誇ったのが米田だ。快速球に変化球、特にプロ10年目くらいから駆使するようになり、

「絶対にワンバウンドしない。フルカウントからでも自信を持って投げられる」(米田)

 という“ヨネボール”と呼ばれたフォークの威力は絶大で、66年には25勝で最多勝にも輝いている。だが、やはり最大の武器は底なしのスタミナだろう。投げて投げて投げまくり、先発した試合の終盤になっても球威が落ちず“ガソリンタンク”の異名を取った。

そして黄金時代の礎に


 60年代に入っても、阪急は低迷を続けた。毎年のように登板は50試合を超え、300投球回を上回ることも少なくなかった米田の一方で、梶本は徐々に失速していく。石井茂雄や足立ら後輩たちが頭角を現す中、入団から続いていた2ケタ勝利も63年に途切れ、66年には15連敗の泥沼に落ち込んだ。

 そんな中、三振を狙っての“1人3球”から、打たせて取る“1イニング3球”へとシフトチェンジ。そして、迎えた67年、完全復活を遂げる。梶本は通算200勝にも到達し、最終的には5年ぶり2ケタ勝利となる15勝、リーグ7位の防御率2.44。米田は防御率こそ梶本に及ばなかったが、18勝と勝ち星では上回って、ともに初めて優勝を経験する。

 阪急は以降、リーグ3連覇。梶本も3年連続2ケタ勝利、68年には自己最多の29勝を挙げた米田がMVPに選ばれている。梶本は73年オフに上田利治監督から「コーチになって助けてくれ」と言われて現役引退。米田は上田監督が世代交代を進めた75年シーズン途中に志願して阪神へ。77年に移籍した近鉄で現役を引退した。

 梶本は通算254勝255敗。名球会の投手で唯一の負け越しではあるが、その数字は奮投の歴史を雄弁に物語っている。米田の通算350勝は歴代2位。長くプロ野球記録だった通算949試合登板は21世紀に更新され、数字は追い越されたが、そのタフネスぶりは現在でも史上最強のままだろう。

写真=BBM
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